組織の決定

平成19年05月27日(日)

 組織というものは、個人では絶対にしない決定をしてしまうことがあります。

 息子が小学生だった頃、PTAで盛んにあいさつ運動なるものが行われていた時期がありました。

 数人の役員が『あいさつ運動』と書いた大きな旗を街角に立てて、

「おはよう!」

 近づいて来る子どもたちに声をかけると、中には緊張のあまり突然同側の手足を一緒に出して歩き出す児童がいたりして、

「あれはちょっとおかしいんじゃないですか?」

 その年、たまたま地区役員に選ばれた私は、思い切って運営委員会で発言しました。

「おかしいと言いますと?」

「いえ、挨拶というものは本来、自然なものですから、旗を立てて待ち構えているのはおかしいんじゃないかと思いまして…」

 すると、会長、副会長を初め、校長、教頭の表情が、刷毛で掃いたように険しくなって、

「今、挨拶運動に旗は不自然だというご意見がありましたが、これについて皆さん、いかがでしょうか?」

 進行役の会長の声だけが空しく会議室に響きました。

 すると、しばらくして、

「確か、あの旗は教頭先生の手作りでしたよね?」

 副会長が、意見というよりは雑談のような発言で沈黙を破りました。以下、副会長の発言を皮切りに交わされた議論を再現してみます。

「あ、旗は何年か前に私が作ったものですが、どうぞ、そんなことはお気になさらずにご議論ください」

「しかし、せっかく教頭先生がお作りになった旗ですから…」

「でも、この際、誰が旗を作ったかということからは離れて検討していただいて…」

「まあ、旗がものものしい感じがするというご意見は分からないでもありませんが…」

「武田信玄じゃありませんからね」(笑)

「つまり、ちょっと大きすぎるんじゃないですか?旗が」

「確かに、大変立派な旗ですが…」

「あの…いきなり旗をなくすというよりも、少し小ぶりな旗にしてはいかがでしょう」

「なるほど、それだったら、ものものしくありませんよね。いい考えじゃないでしょうか」

「新しく作る旗には、あいさつ運動ではなくて、例えば、交通安全と書くとか…」

「交通安全ですか、それはいいですね」

「皆さん、いかがですか?」

「…」

「…」

「ご異議はないようですね」

「しかし、旗は誰が…」

「いえ、それはまた私が作りますので」

「よろしいんですか?教頭先生にばかりお手数をおかけして」

「いえ、それが仕事ですから」

「では、この件はそういうことで」

 結局、PTAという組織は、誰も望んでいない小さ目の旗を作製することを決定したのでした。

 日本民族の古い呼称である「倭」という言葉の意味は、人に委ねる性質を表していると聴いたことがあります。

 「倭」は「和」に通じて、協調性を表すようになりました。聖徳太子が尊び、政治家が好んで色紙に墨書する「和」という性質は、穏やかな社会を維持するためには好ましい性質ですが、複数で意志決定をしようとする時には必ずしも好ましい結果を招かないようです。前述したPTAの議論が『あいさつ運動』は如何にあるべきかという本質を離れて、旗の大きさなどという瑣末な議論に終始したのは、メンバーがまず、会長、副会長、校長、教頭の表情が険しくなったという事実に反応して、現状を大きく変えることは歓迎されていない…と機敏に察し、大いに「和」の精神を発揮したことに端を発します。

 次に、

「確か、あの旗は教頭先生の手作りでしたよね?」

 という副会長の愚にも着かない発言の内容ではなく、副会長その人という「人間」との「和」を重んじて、

「ちょっと大きすぎるんじゃないですか?旗が」

 誰かが、旗そのものを否定することを巧みに避ける発言すると、今度はその発言者との「和」を図ろうと、

「少し小ぶりな旗にしてはいかがでしょう」

 という意見が飛び出し、さらには、

「新しく作る旗には交通安全と書いたら…」

 という提案になって、組織は、当初誰一人想像もせず、必要性も感じていなかった小ぶりな旗を作ることを決定したのです。

 相手との関係を壊しはしまいかと、探り探り交わす議論は、語尾があいまいになります。

 手作りでしたよね?検討していただいて…分からないでもありませんが…大きすぎるんじゃないですか?大変立派な旗ですが…交通安全と書くとか…旗は誰が…。

 つまり議論は、発言者の発言内容の吟味以上に、発言者との関係維持を隠れた目的にして進行するのです。従って「和」の民は、初めから「和」を乱すことが明らかな議題を提案する人間を憎みます。逆に言えば、人々の意見が分かれる大きなテーマについては議論ができないという、民主主義国家としては致命的な心情的風土があるのです。天皇制、死刑の是非、宗教問題…そして、憲法第九条。

「誰が考えてもまぎれもない軍隊を、苦しい解釈によって自衛隊と言いくるめ続けるのはいかがなものかと思うわけです…」

「しかし、戦後一貫して戦争を放棄してきた国民の心情を考えれば、軍隊という名称は、やはり穏やかではないのでは…」

「専守防衛という意味を込めて防衛軍という名称を用いてはいかがでしょう?」

「それはいい。新憲法も、侵略戦争はしないという点では、現行憲法と何ら変わりはないわけですからね」

「もちろん、平和を希求する崇高な理念は、新しい憲法の前文にも明示いたします…」

「となると、結局、侵略と防衛の定義が問題となるわけですが…」

「その判断は、イラクにおける戦闘地域と非戦闘地域の違い以上に高度な政治的判断であるわけでして、軽々に論ずることは却って混乱を招くのではないかと…」

「それに、緊急有事の場合以外は、政府の判断は、事前に国会の審議に附して十分に話し合うことになっていますから…」

 しかし、その話し合いで、小ぶりの旗のように本質を離れた決定を下して他国と事を構えるようなことになれば、「和」の民は、その「和」の性質ゆえに、再び一億火の玉となって、今度は滅亡の道を辿ることになりかねません。国民投票の年齢を十八歳に設定してまで憲法改正を急ぐ前に、「和」の民は、「和」の美質を損なわないまま、しかも、しっかりと本質を見据えて議論できる大人の筋力を鍛えなくてはならないように思います。