古希感慨(1)

令和03年01月15日(金)

 七十歳になりました。七十歳は古希と言いますが、古希は古来まれなりという意味ですから、日本人の平均寿命が短かった時代には、元気に七十歳を迎えるのは珍しいことだったのでしょう。超高齢社会の今となっては七十歳など珍しくもないと言うべきなのでしょうが、2020令和2年に亡くなった有名人をざっと挙げてみると七十歳前後の人が何人もいます。

 梓みちよさんは七十六歳で亡くなりました。孤独死でした。志村けんさんが新型コロナウィルスに感染して亡くなったニュースは衝撃を伴って列島を駆け抜けました。七十歳でした。同じく新型コロナウィルスで亡くなった岡江久仁子さんはそれより若い六十三歳でした。C・Wニコルさんは直腸がんのため七十九歳で亡くなりました。志賀廣太郎さんは誤嚥性肺炎で七十一歳の生涯でした。山本寛斎さんは白血病で七十六歳没。弘田三枝子さんは心不全で享年七十三歳。渡哲也さんは肺炎で七十八歳。岸部四郎さんは心不全で七十一歳。斉藤洋介さんはがんで六十九歳。森川正太さんも同じくがんで六十七歳。小松政夫さんは肝細胞がんで七十八歳…。

 こうして挙げてみると七十代はまだまだ若いと高をくくってはいられません。いつ死んでもうろたえない覚悟を固めると同時に、終活なるものを始めなければならない年齢なのです。

 それにしても七十歳になってみると、七十年も生きて来た実感がないのはどういう訳でしょう。大袈裟なようですが二十歳の頃から気持ちは一向に変わっていないような気がします。いつの間にか周りに若い人が増えて、何となく一目置かれるようになったと思ったら、気が付くと相手にされなくなっていたという感じです。バス停で年寄りばかりの列に並び、何をもたもたしてるんだと苛立ちながらバスに乗り、あれ?敬老パスがない…とうろたえる後ろで、次の年寄りが舌打ちをするという場面を経験するようになりました。二十代の頃には七十歳の人を見て対岸の人のように感じましたが、周囲は私の駄洒落を聞いて、違うステージの人だと感じているのでしょうね。自覚をして七十歳らしく振舞おうという気持ちと、年齢など意識しないで若々しく振る舞おうという気持ちの間で心は揺れています。この不安定さが思春期ならぬ思秋期なのでしょう。まだまだ捨てたものではないと気力がみなぎる日の翌日は、夜中に三度もトイレに起きたことを気に病んで溜息をつくのです。

 歴史を五百年刻みにしてみると、キリストが生まれた五百年後、我が国は古墳時代でした。さらに五百年経つと平安貴族が歌を詠んでいて、もう五百年経っても信長はまだ生まれておらず、さらに五百年が経つと介護保険法が施行されました。歴史には加速度がつくのです。同様に私の七十年を振り返ってみるとどうでしょう。


 私は1950昭和25年に郡上八幡で生まれました。日本が太平洋戦争に負けたのが1945昭和20年ですから、戦争が終わってわずか5年後に生まれたことになります。軍需工場もない田舎町だったおかげで、戦争の爪痕をなまなましく目にしたことはありませんが、あるとき祖父が台所の羽目板を外して、「ここがうちの防空壕やったんや」と見せてくれた床下の大きな暗がりを覗いたときは、穴の底で体を寄せ合って敵機の爆音が遠ざかるのを待つ、私が生まれる前の時代の祖父母と母の不安が、直接伝わって来るようでした。戦地には行かなかったものの、1889明治22年、大日本帝国憲法発布の年に生まれて、5歳で日清戦争、15歳で日露戦争、52歳で太平洋戦争と、3度の戦争を体験した祖父としては、戦争を知らない小学生の私に、家族が経験した恐怖の一端を見せておくべきだと思ったのでしょう。楽しく食卓を囲む台所の床の下に黒々とした防空壕が存在する…。平和と戦争が背中合わせに共存している不気味さが、70歳になった私の心にありありと焼き付いているところを見ると、祖父の試みは期待以上の効果を持ったと言うべきでしょう。

 戦争の爪痕と言えば、初詣に出かけた神社には、白い着物を着た何人かの傷痍軍人が、アコーディオンで『戦友』という軍歌を弾いて無言で立っていました。足元にある小銭の入った缶で物乞いであることが分かりました。着物の裾からは鮮やかな肌色の義足が伸びていました。防空壕を見て戦争というものに対する想像を逞しくしていた私の目には、爆風に吹き飛ばされる瞬間の兵士の姿が浮かんでいました。気の毒に思って近寄ろうとする私の手を引いて、母は人混みの中を逃げるように遠ざかりました。国家のために戦って負傷した兵士を差別する気持ちが母にあったとは思えません。当時の母が、施しをできないほど逼迫した経済状態だったとも思えません。施しをするときに嫌でも直面する、施しを受ける側との立場の違いの理不尽さに耐えられなかったのでしょうか。それとも『自分だけ戦争が終わったつもりになるなよ』という無言の抗議を受けているようで、いたたまれなかったのでしょうか。いずれにしても母親の不人情が理解できないまま、白い着物のおじさんには関わってはいけないのだという気分が、小学生だった私の心に刻まれて、今も後ろめたさを放っています。

 友達の家に遊びに行くと、ランニングシャツ姿の父親が、家業の縫製の手を休め、「これを見てみい!もう5センチずれたらおれは死んどったんやぞ」と、銃弾が貫通した右肩のひきつれを自慢げに見せてくれました。

「隣の戦友が地面に顔を伏せたまま起き上がらん。見ると額を撃ち抜かれとる。そうなると、もう弾なんか怖おない。頭にかあっと血が上って、絶対に仇を討ったる!と思うんや」

 激戦の様子を熱心に語る父親の話を友達は何度も聞かされていたのでしょうか。早く終わらないかな…という顔をして、「相槌を打つな」という目配せをこっそりと私に送るのでした。

 こんな田舎町にも、目を凝らせば、戦争の爪痕は隠れるように存在していたのです。

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