古希感慨(9)(最終回)

令和03年02月21日(日)

 70年を振り返るつもりが、思春期あたりまで回想したところで時代の区切りが見えて来ました。ここから先はむしろ現在に近く、隔世の感はありません。しかし、一線を超えた資本主義の限界とは別に、文明の持つ副作用として、関係性の喪失を指摘しなければなりません。

 釣った魚を三枚におろして刺身にして食べるときの自分と魚との関係は、スーパーの鮮魚コーナーで購入したトレーの刺身との関係とは全く別のものです。刺身にするまでに加えた労働量の差なのだと思います。好意を持った異性に直接交際を申し込むときに感じる期待や不安や気おくれは、手書きの手紙になると半減し、パソコンで作成した文章を用いるとさらに半減し、メールになるとそれはもう異質なものです。告白に要したエネルギー量の差なのでしょう。添い寝をして肉声で読み聞かせる昔話からは、子どもの心に物語の内容を超えた愛情が伝わりますが、ⅭDプレーヤーから流れるプロの朗読は情報でしかありません。要するに生活に手応えを感じようとすれば、対象とできるだけ直接的な関係を持たなければならないのだと思います。ところが文明が目指す『利便性』は、たいていの場合、人や物との関係を間接的なものに変質させてしまいます。無言でスマホを操作して注文した商品が、翌日には宅配ボックスに届いているという時代です。注文履歴が集約されて、好みに合いそうな商品をコンピュータが勝手に画面に表示する時代です。クリックしたニュースの傾向から、関心のありそうな話題ばかりをAⅠが優先的に紹介する時代です。カーナビに目的地を設定すれば、機械の音声に従ってどこへでも運転して行ける時代です。それどころか、今やハンドル操作をしなくても自動で運転してくれる車の開発も進んでいます。子どもは未満児から保育所に預け、親は高齢者施設に任せて夫婦で働く時代です。ひょっとすると自分の子どもを保育所に預け、他人の子どもの保育に従事している保育士がいるかも知れません。自分の親を施設に預け、他人の親の介護に従事している介護士がいるかもしれません。悪意でも不人情でもありません。夫婦が共働きをしないと生きていけない社会構造になっているのです。そんなふうに機能分化した社会を生きている私たちは、ときに夢から覚めるように、生活そのものが巨大な経済システムのパーツになっていることに気が付くのです。

 社会は私が思春期までに経験した手ごたえのある時代を知らない人たちで構成されるようになりました。私が感じる生きものとしての疎外感は、一つ前の文明の時代を生きた者の抱く単なる感慨なのでしょうか。それともこの国の生活者を蝕む深刻な社会病理なのでしょうか。そのことをさらに10年後に80歳の感慨として書くことができればと思っていますが、さて肝心の私の寿命が与えられているかどうか…日程が迫る人間ドックの結果に密かに怯えているのです。

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終(最終回)