接種券

令和05年02月12日(日)

「いや、実は、私どもは市から委託されてコールセンターを運営している立場なのですが、そういうお問い合わせに対しては答えてはいけないルールになっているものですから、どうかご理解ください」

「委託元のルールだから教えられないのですか?先ほどまでは個人情報だから答えられないとおっしゃっていたではないですか?私は接種券の発送の有無が個人情報に当たるのかどうかをお尋ねしています。氏名と生年月日ではお答え頂けず、前回接種日が分ればと言われてお伝えすると、接種券番号が必要だと言われ、調べて照会すると今度は個人情報だからと回答を拒否されたあげく、いまあなたから実は委託元のルールだと言われてるのですよ。私は旅先の駅の待合室でグループホームとセンターにいったい何度電話をかけたと思いますか!」

 私はかつてないほど興奮して声が大きくなるのを抑えられず、スマホを耳に当てたまま待合室から外へ出ました。夫が公的な機関と喧嘩しそうな気配を感じ取って、追いかけるように外に出た妻は、伏せた両手を胸の前で盛んに上下させて、やめろというサインを送っていますが、火に油をそそぐ効果しかありませんでした。

 喧嘩をしない。議論をしない。摩擦を避ける。いつも穏やかでいる。国民がそんな態度でいるから、権力を握っている側は怖いもの無しのやりたい放題なのではありませんか。一国の総理が国会でどんなに見え透いた嘘を繰り返しても抗議する術がなく、戦後の国是として党派を挙げて尊重し続けた平和憲法の解釈を閣議決定で易々と変更しても批判の声を上げる場所がなく、平和の祭典であるはずのオリンピックの利権を政財界が寄ってたかって食い物にしていたことが判明しても怒りを向ける先がありません。おおやけの重要な業務がどんどん民間に委託され、公務員の非正規化が進んで、責任の所在が不明瞭になると同時に仕事の質が目に見えて落ちても、我々には文句を言って行くところがありません。そのくせ選挙で投じるささやかな一票によって世の中が変わるという実感もないのです。いつどこで植え付けられたものか、デモなどの抗議活動に参加すれば、結局は、公的、私的に不利益になるという怯えが心の深部に巣食っています。ハラスメントの誹りを恐れて年齢も配偶者の有無も聴けず、個人情報の壁に阻まれて思うようにコミュニケーションが取れず、所得格差が開いて行く実感の中で国民の分断が進んでいます。差し障りを恐れてどんどん発言を委縮させて行く国民の先行きに明るい未来は描けません。個人情報ですらない委託契約上のルールを盾に、私に接種券発送の有無を明かさないワクチンコールセンターの管理職が、我が国が抱える悪しき病根を象徴しているように思いました。

「それでは接種券送付の有無が個人情報であるかどうかについてセンター長宛てに文書で照会しますので、文書でご回答願います。委託契約上のルールであるというお返事であれば、委託元をご記載ください。そちらに回答を求めます」

 ご承知おきください!と言って電話を切りました。

 心臓が別の生き物のように踊っていました。

 そこまで言うことはないのに‥‥とたしなめれば、新たな怒りの導火線に火が付くことを恐れる妻と二人、口数少なく我が家に帰り着くと、郵便受けに接種券が届いていました。

 翌朝…。

「あの…私、昨日、母の接種券のことでお電話した者ですが、帰ったら届いておりましたのでご連絡申し上げます。興奮して言葉が過ぎたと反省しています。どうかお許しください」

 コールセンターに電話すると、

「いえいえ、何度もお電話をかけて頂いたあげく、お答えできませんでは、お腹立ちになるのももっともだと思います。こちらこそ不愉快な思いをおかけして申し訳ありませんでした」

 両者とも『おとな』の対応をして自分の気持ちに決着をつけましたが、接種券送付の有無は個人情報にあたるのかどうかについては結論が出ていません。個人情報とはいったい何なのでしょうか。

「夏目漱石さんというお宅を探しているのですが…」

 と交番で聞けば、それは個人情報だからと答えてはもらえない時代になってしまったのでしょうか?

 そこで機会を得て法律の専門家に質問すると、答えは明快でした。

「特定の個人に接種券を発送したかどうかは、法的に言えばやはり個人情報に当たるでしょうね。個人の情報をコントロールできるのは本人だけというのが法の趣旨ですので、やはり息子さんだからといって答えられないというセンターの判断は正しいでしょう」

 まあ、現実の扱いは担当者によって違うと思いますよ…という返事を聞いて、私の思考にシャッターが下りました。認知症の母に接種券が発送されたかどうかを確かめようとすれば、まずは、かかりつけ医を受診して母の認知症の程度を証明する診断書を作成してもらい、裁判所で後見の申立てを行って、一、二か月して後見人が選任されれば、代理権を行使して初めてセンターに照会するという手続きが可能になるのです。

 法的には正しくても、果たしてそれが現実的かどうか…。

 結局は、

「まあ、現実の扱いは担当者によって違うと思いますよ」

 というところに、息が詰まるような閉塞社会に風穴を開ける唯一の可能性が潜んでいるのかも知れません。

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