沈黙の罪

平成20年06月04日(水)

 小学生を持つ母親から、考えさせられる現実を聞きました。

 多発する児童をターゲットとした犯罪から生徒を守るために、町で道を尋ねられたら無視をして通り過ぎる訓練が行われているというのです。本当に道を知りたい人は、小学生には尋ねないだろうというのがその理由です。そういえばいつだったか、見知らぬ人から声をかけられたら大声を張り上げる訓練を行っている小学校がニュースで取り上げられていました。同じ学校で熱心にあいさつ運動が取り組まれているのが何とも複雑な光景でした。

 前回のコラムで、女性は身を守るために深夜の外出は慎重にすべきではないかという趣旨の文章を書きましたが、危険を未然に回避するという意味では、小学生に対する訓練も発想は同じです。しかし女性の深夜外出を戒める意見については抵抗なく賛同できるのに、道を尋ねる人を無視したり、声をかけられたら叫ぶ訓練を小学生に強いることに対しては、何ともいえない不快感が伴うのはなぜでしょう。

 考えてみれば食べ物でも同じことが起きました。動物は本能的に食べ物の安全を色や匂いで確かめますが、本能を信頼して賞味期限の日付を変更した食品会社は、厳しい糾弾を受けました。それ以来、期限が満了した食品は廃棄が徹底されているようです。まだ十分に食べられるにもかかわらず大量の食品が廃棄される様子を想像する時に感じる不快感が、小学生の訓練に抱く不快感と似ています。つまり、危険を回避する目的には賛同できても、方法の合理性に違和感があるのです。それは、女性に深夜の外出を戒めるのとは質的に違います。人目の少ない深夜には不心得な人間が横行しますが、賞味期限はそのまま腐敗を意味してはいませんし、小学生に道を尋ねる人は怪しい人物と決まってはいないのです。

 この種の極端で画一的な対処の仕方は、わが民族の体質かも知れません。

 小学校に侵入して無差別に児童を殺傷した事件が連日報道され、あたかも同様の事件が全国で頻繁に起きているような錯覚に陥っているところへ、

「今、無防備な学校の在り方が問題になっています」

 有識者がしたり顔で指摘すると、のどかな田舎の学校の門扉までが施錠されて、畑仕事の帰りに校庭のベンチでひと休みしながら子供たちの様子を眺めていた近所のおじいさんおばあさんが閉め出されてしまいました。ことほどさように、水温が一定以下になるとプールには水泳禁止の赤旗が立ち、通学路以外の道路の利用は禁止され、台風一過、爽やかな陽を浴びて登校して来た生徒を、まだ警報が解除にならないからという理由で帰宅させるような事態が起きています。

 それらは全て、例えば、うちの子が風邪を引いたのは、冷たいプールで泳がせたからだといって学校を責める大変特異な保護者の特異な意見に対して、大半の良識ある保護者たちが沈黙を保つ中で、学校側の自己防衛として出現している訳ですから、最大の罪は良識ある側の「沈黙」にあるのですが、現在小学生に対して行われている訓練は、果たして沈黙していていいものでしょうか。

 あいさつ運動に取り組む一方で、知らない人に声をかけられたら叫ぶ練習に励んだ児童の心には、人間を信頼する気持ちが育つでしょうか。誰にでも親切にしましょうと教えられる一方で、道を尋ねられたら無視する訓練を受けた子供たちは、矛盾した二つの価値を教える教員を信頼することができるでしょうか。硬いものを食べなくなった子供たちの顎がわずかな期間に小さくなったように、人間社会に対する信頼の揺らいだ子供たちの心は、案外短期間に、過度の臆病と反動としての大胆な逸脱という質的な変化を遂げて、やがて私たちの社会に深刻な影を落とすような気がしてならないのです。だったら事件事故から子供たちを守るためにはどうしたらいいのだと問われれば、腐った食べ物を色や匂いで確かめるように、集団よりも個の防衛本能を高めるしかないのだという、当たり前の答えしか持ち合わせてはいないのですが…。