ゴミ収集場の神様

平成20年06月20日(金)

 作品が書けない時は好きな作家の本を読むのが一番いいのですが、寄る年波ですぐに目が疲れてしまって根気が続きません。久しぶりに映画を観ようと思い立って、レンタルビデオショップでDVDを借りました。北大路欣也主演の『空海』という恐ろしく旧い映画と、西田敏行主演の『椿山課長の七日間』という比較的新しい映画です。

 『空海』に目が留まったのは、年配の学生の一人から、

「平安時代に癩患者の施設を作った真言宗の僧侶がいましたが、真言の教義と関わりがあるでしょうか?」

 と質問されて、説得力のある答えができなかたことが理由ですし、『椿山課長』を選んだのは、

「先生、椿山って課長、カワイソウだよね」

「誰?椿山って」

「椿山課長の七日間という映画だよ、西田敏行の…知らないの?」

 と介護科の学生が言っていたのを思い出したからでした。

 脈絡のない二つの映画は、時代背景は違いましたが、この世の生を越えた世界を描いているという意味で共通していました。

 物事には機運というものがありますね。

 実は少し前に通販で買ったCDで、小林秀雄という著名な評論家が、早稲田大学の学生の質問に、

「たましい?そりゃあ当然あるでしょう。私が私のお婆さんを思い出す時、お婆さんのたましいは、間違いなく私のところにいる訳ですからね。当たり前です」

 そう答えていた言葉の真意が、あと一歩のところで実感できないでいたのですが、二本の映画を観終わって、突然解ったような気がしました。

 『空海』に描かれた真言密教の奥義や、『椿山課長』が体験した死後の世界とは直接関係はありませんが、こうして私がこんな文章を書いていることや、それを読んで何かしらを感じてくれる読者がいることに象徴されているように、科学では証明できない人間の『思い』…広い意味で魂と呼んでいいのでしょう…こそ、マッチ一本で燃えてしまう目の前の物質より、よほど確実な存在なのです。愛も憎しみも、怒りも悲しみも、美しさも醜さも、世の中は実に人間の『思い』を中心に展開しています。こんな自明の事実の真っ只中で生きていながら、『人が思うこと』を、実在から最も遠い心理学上の問題として『現象』の領域に追いやってしまった現代は、溢れ返る物質文明を信奉して痩せ細っています。悪魔を排除して神を失ったのです。

 錆び付いた脳に久しぶりに刺激を与えてくれたDVDを返却すべくマンションを出ると、コンクリートで囲まれた一角にゴミ袋の山がありました。おっと生ゴミの日だ…。部屋にとって返してまずは生ゴミを出し、ビデオショップの駐車場に車を入れたとたんに、今度はDVDがないことに気がつきました。DVDを持つと生ゴミを忘れ、生ゴミを持つとDVDを忘れる年齢になったのです。そういえば、携帯電話を忘れて取りに戻り、カバンを忘れて出かけたことがありました。

 まあいいか…。返却期限までにはまだ三日ある。郵便局に寄って用を済ませ、コンビニで買い物をし、部屋に戻ってぞっとしました。部屋のどこにもDVDがありません。とっさに時計を見ました。九時半…。とうにゴミ収集車が来ていてもおかしくない時間でした。ですから駆けつけた収集場所のゴミの山の隙間に、青いレンタルショップの袋を見つけた時の喜びといったらありません。

 神様がいた!

 私は改めてDVDを返しに行きながら、持て余すほどの幸運を感じていたのでした。