人々の最期

平成20年07月27日(日)

 四年に一度開催される同窓会は、物故者への黙祷で始まりました。

 小学生の頃、気の合った友だち数人がN子の家に集まってかくれんぼをしたことがありました。狭い家のこと、隠れる場所も尽きて、

「そうだ、ズボンとスカートを取り替えてカーテンの向こうに隠れよう」

「足が見えちゃうよ」

「だからオニが間違えるんだよ」

 見事に策略が成功した後で、さっきまで彼女の下半身を覆っていたスカートを自分が履いているという事実が別の意味を帯びて、突然うろたえたことを覚えています。そのN子の死が報告されました。クモ膜下出血でした。

 仲間たちはよく集まって特技自慢をしました。私は裏声で笛の音が出せました。友人は手品が得意でした。別の友人はポキポキッと手首の骨を鳴らせましたが、何の特技もないM男は淋しそうでした。当時「石玉」と呼ばれて、舐めると色が変わる白くて固い飴玉がありました。ある時M男は一度に大量の石玉を口に入れ、しばらくもごもごしていましたが、やがて勢いよく手の平に吐き出した飴玉は七色に変化していました。それがM男の特技になりました。定年前に会社を辞めたM男の突然の死は、自殺ではないかと囁かれました。

 死んだ同級生は、なぜか子供の頃の顔をして笑っています。五十七歳…。そろそろ人生の出口が見える年齢になりました。そう思うと、同じ時代を共有する仲間たちのかけがえのなさを感じると同時に、これまで出会った様々な人々の最期について思いを巡らせたくなりました。


 Tさんの場合

 役所に入って初めて仕えた上司であるTさんは、まるで煙突のようなヘビースモーカーで、給料が支給されると、袋ごとズボンの後ろポケットにねじ込んで、

「おい、ナベ。税金納めに行くぞ」

 そんな言い方で私を歓楽街に誘う豪快な人でした。

 書き損じた用紙を無造作にゴミ箱に捨てる私を見咎めて、紙を無駄にするなと恐い顔で諌めるTさんに、

「この無駄が製紙業者や印刷会社を儲けさせ、やがて税金になって我々の給料になるんですよ」

 私が負け惜しみを言うと、

「たわけ!ど阿呆!」

 Tさんは、部屋の全員が振り返るような大声で怒鳴って睨みつけました。 私は震え上がって捨てた用紙をゴミ箱から拾い出し、「砂消し」と呼ばれていたインク用の消しゴムで誤字を丹念に削り取って書類を完成させましたが、

「よし!」

 と書類に判を押したTさんの目元が笑っているのを発見した時から急速に親しくなったように思います。

 年月が過ぎ、久し振りに会ったTさんは、二度目の勤めを終えてほっとしていましたが、最近声がかすれるので受診したところ、大きな病院で精密検査を受けるよう勧められたと言って煙草に火をつけました。

「ま、医者なんてものは何でも大袈裟に言うからな」

 それを聞いて私は不吉な予感がしました。

「精密検査と言われたのに煙草ですか…」

 言ったとたんに自分でも思いがけず涙があふれ出ました。

「ナベが…泣くかよ…」

 Tさんは困ったような顔で火を消して、後日精密検査を受けました。肺がんでした。

 もう長くないと聞いたある日、病室を見舞った私に、Tさんは聞き取れないような囁き声で車椅子を押せと言いました。そこを右、次を左と指図されて、たどり着いた場所が喫煙室でした。

「?」

 病衣のたもとからハイライトを取り出したTさんは、

「やめたらオレは煙草に負けたことになるが、吸い続ければ友だちだからなあ…」

 百円ライターを差し出して私に火をつけるように命じました。それが最後の言葉になりました。棺に投じられたたくさんの煙草と共に、とうとう自分自身も煙になったTさんは、生前に親友のSさんと並びで買った墓の一つに眠っていますが、実はSさんは私が仕えた二人目の上司であり、不思議なことにSさんの最期にも私が深く関わることになったのです。


 Sさんの場合

 Sさんは胃の不調を訴えてかかりつけのクリニックを何度か受診するのですが、投与される薬を服用しても症状は改善せず、

「お父ちゃんも七十を過ぎて、食欲がなかったり痩せたりするのは仕方ないけど、だるいだるいって元気がないのには困ったもんですよ」

 奥さんののんきな言葉とは裏腹に、私の喉元にSさんの時と同じ種類の胸騒ぎが突き上げました。ほとんど拉致するように、当時私が勤務していた総合病院に受診させました。本人には胃潰瘍と告げられましたが、進行性の胃がんでした。緊急に行われた開腹手術は短時間で終了しました。既に転移していて手が付けられない状況でした。こうしてSさんは近くの病院に転院し、化学療法を受けながらの闘病生活が始まったのでした。

 現役時代は、

「皆さんは思い切って仕事をして下さい。責任は私が取りますからね」

 派手な対外的業務は部下に任せ、自分は事務所にこもって黙々と資料作りをするSさんの人柄を私は好きで、職場を離れてからもお付き合いが続きました。

 私が家を建てた時のことです。

「ふむ…困りましたなあ。この地区は水道管が細いですから、あなたが加入されると周囲の水圧が落ちてしまうのですよ」

 太い管に替える費用を全額負担するのであれば水道加入を認めると役場は言いましたが、家を建てたばかりで私には資金の余裕がありません。そもそも町道に埋設されたおおやけの水道設備の修復費用を、個人に負担させる行政の姿勢には納得が行きません。

「そうは思いませんか?」

 と憤慨する私に、

「ナベ、井戸を掘ってみるか」

 Sさんの答えは意表をついていました。

 三本の頑丈な丸太を組んでこしらえた櫓の頂上に滑車をつけて、先の尖った太い鉄管をロープで高々と持ち上げては勢いよく地面に落とす作業が週末毎に何ヶ月続いたことでしょう。結局、六メーターほど掘ったところで岩盤に当たって井戸掘りは頓挫しましたが、掛け声を揃えては一緒に綱を引く時のSさんの真剣な眼差しは忘れられません。私ごとき者のために、ここまで汗を流してくれる人がいる…。その感動は、大袈裟なようですが、私の心の深い場所で、人間というものの善意を信じるぎりぎりの根拠になっているように思います。

 出張で近くを通る機会さえあれば病室を覗く私を、

「慌てると事故を起こすぞ。もう行け行け」

 却って気遣ってくれていたSさんも次第に衰えて、満足に歩けなくなりました。これにつかまって腹筋を鍛えるのだと、本人が工夫してベッドに掛け渡した自慢の金属棒が病室の隅に立てかけられた頃から、Sさんは昼間も眠っている時間が長くなりました。やがて危篤状態に陥ったSさんは、親族に見守られて下顎呼吸を繰り返していました。両側から手を握る幼い三人の孫たちは、自分たちにはもはや全く関心を示す気配もなく、別人のようになって呼吸に専念するSさんの様子に、少し怯えているように見えました。親族ではない私は、それ以上の同席を遠慮しましたが、Sさんは大切な人たちが見守る中で静かに息を引き取ったとのことでした。

 葬儀が終わってしばらくすると、Sさんの最期を怯えたように眺めていた、あの孫たちのことがふいに気がかりになりました。死は苦痛に満ちた恐ろしいものという印象を幼い孫たちに残すのは決してSさんの本意ではないはずです。私は、大きくなったら読むようにという手紙を添えて、下顎呼吸になった患者の状態を説明する次のような文献のコピーを郵送したのでした。

『下顎呼吸は延髄の呼吸中枢からの命令に筋肉が従っているだけで、本人の意思は関与していません。大量に分泌される脳内モルヒネによってトランス状態になり、本人は恐らくうっとりした気分でしょう』

 Sさんの墓はTさんと並んで立っています。


 Aくんの場合

 Aくんとは軽井沢で開催された医療ソーシャルワーカーの研修会で親しくなりました。同じ部屋を割り当てられて二泊三日を過ごしてみると、個人的に大変ウマが合い、それからも連絡を取り合っていくつかの研修会に参加するようになりました。

 ある年、女ばかり三人の子供たちが明るくⅤサインをする旅先のスナップをプリントした葉書に、今年も会いましょうと直筆で書かれた年賀状が届いて間もなく、共通の友人からAくんの訃報の電話が入りました。

「事故か?」

「わからない」

 彼がビルの七階から飛び降りて自ら命を絶ったことを知った時の衝撃は、今でも生々しく思い出すことができます。年賀状の写真が浮かびました。あんな可愛い子供たちを残して死ななければならない理由とは何なのでしょうか。都合で通夜にも葬儀にも出席できなかった私は、悲しい憤りに駆られて、Aくんの奥様に宛てて一通の手紙を書きました。友人の突然の死をどうしても納得できない者の一人として、是非自殺の理由を教えて欲しいという内容の手紙でした。失意のどん底にある奥様から見れば、勝手に夫の友人を名乗る一面識もない男から、恐らく最も触れられたくない傷口をさらし出せと要求する、この上なく非礼で不躾な手紙が届いたことになります。

 当然のように返事がないまま二年が経ちました。名古屋市内で開催された催しで講師を務めた直後のことです。私は参加者の一人から声をかけられました。

「あの…私、Aの妻ですが…」

 心のこもったお手紙をいただいて、そのままになっていましたと前置きし、彼女は私に、Aくんが亡くなった時身につけていたという一通の遺書を見せてくれました。内容に触れるつもりはありません。ここでは人間の最期というものについて思いを巡らせています。Aくんの遺書は白い封筒に入っていましたが、私は手紙よりも手紙を覆う封筒から目を逸らすことができませんでした。ありがとう、さようなら、ありがとう、さようなら…。白い封筒の余白を埋め尽くすように、走り書きの文字が躍っていました。

 読んでいると、眼下に都会の夜景が広がりました。ズボンの裾が風ではためいています。

 歯の根が合わないほど全身が震えるのは、冷たい風のせいなのか恐怖のせいなのか自分でも判りません。上着のポケットから昨夜したためた遺書とボールペンを取り出しました。とても大切なことを言い残しているような気がするのですが、言葉が思いうかびません。

 ありがとう、さようなら、ありがとう、さようなら…。

 月明かりの中で、立ったまま余白を埋め尽くした時、ようやく気持が満ちました。再び封書をポケットにしまって、思い切って地面を蹴りました。その瞬間、Aくんのたましいは落下する肉体から離れ、見たことのない一羽の鳥になって飛び去ったに違いありません。親しい人々の最期を思い出すと、交わした言葉のあれこれが重なってとても冷静ではいられませんが、親しい人々以外にも、大病院の相談室は他人の最期に関わることの多い職場でした。


 ホームレスの場合

 救急車で搬入されてそのまま入院になったホームレスは、重篤な病状にもかかわらず、身元を証明するものを全く持っていませんでした。

「意識は清明ですが、いくら尋ねても、水をくれなきゃ何も答えない…の一点張りです。しかし今水を飲ませたら命取りなのですよ」

 何とかして実家の住所を聞き出せないだろうかという病棟師長の本音は、万が一の場合の遺体の引き取り先を心配しているのでした。

「聞こえますか?私、相談員の渡辺と言います。お一人じゃ心細いでしょう?これがいい機会ですよ。こちらから連絡を取りますから実家の住所を教えてください」

「実家か?ふむ…○△町の…」

「○△町の?」

「…やっぱり水を飲まねとな」

「何言ってるんですか。水を飲んだら危険なんですよ。我慢しましょう…で、○△町のどこですか?」

「○△町の…○△町の…ふむ…水飲ませてくれれば教えてもええけどな」

「病気が良くなればいくらでも飲めますよ。それより実家はどこですか?○△町に身内がいるんですか?」

「水が飲めねばしゃべれんな」

 こんなやりとりを繰り返して、とうとう諦めた私が相談室に戻った直後に、彼が息を引き取ったという連絡が入りました。

 「○△町」まではでたらめではない…。咄嗟に私はそう思いました。事務所に行ってポラロイドカメラを借りて来ました。その時の行為が法的に問題がなかったかどうか、今となっては自信がありません。私は既に死後処置の済んだ彼の日焼けした顔に近づいて写真を撮りました。簡単に経緯を記した手紙と共に、それを東北地方にある○△町役場にファックスで送りました。小さな田舎町だったのでしょう。これから病院に向かうという電話が入りました。彼は翌日、久しぶりに再会した妻子と一緒に、恐らくは敷居の高かった故郷に帰って行きましたが、最期の様子を尋ねられても、水が飲みたいと言い残して亡くなったことは伝えることができませんでした。


 Hさんの場合

 Hさんは司法書士でした。危ない仕事に手を染めて、愛人とハワイに出かけるほど羽振りのいい時代もありましたが、やがて仕事が裏目に出たために東京にはいられなくなって、愛人に生ませた孫ほどの年齢の娘と三人で逃げました。転々としたあげく落ち着いた土地で、今度は愛人が娘を残して別の男と姿を消し、Hさんが胸の病気で入院して来た時は、娘は高校三年生に成長していたのでした。

 入院中のHさんは、売店で購入した、例えばあられの製造元へ、故意に汚した製品を同封して不具合があった旨の手紙を送りつけ、新品のあられをもう一箱手に入れたことを自慢するような患者でした。所持品の中には、名前の違う大量の印鑑があって、時折りいかがわしい人物が病室を訪ねて来たりしていましたが、Hさんの病状が悪くなると姿を見かけなくなりました。

 Hさんが危篤状態に陥ったのは、高校を卒業した娘が社員寮のついた電気関係の会社に就職して一月ほどした頃のことでした。私は急いで娘の会社に連絡しました。父親の最期に会わせたいという当方の気持を理解して、会社は娘を病院に連れて来てくれました。その頃、ベッド上のHさんは壮絶な最期を迎えていました。まるで活き造りの鯵がヒレを震わせるように、Hさんは目をむいて、盛んに全身を痙攣させました。既に医学的にはなす術もなく、主治医も看護師も目の前で展開する断末魔の終焉を静かに待っているところへ娘が駆けつけました。

「お父さん!」「お父さん!」

 娘にとってはかけがえのない父親でした。

 そして恐らくは、初めて経験する身近な人間の死でもありました。一方、医師は冷静でした。

「残念ですが、どんなに声をかけても、お父さんには何も聞こえませんよ…」

 私は怒りがこみあげて、

「先生、ちょっと廊下に出ていて下さい」

 医師を病室から出すと、

「さあ、もっと呼びかけてあげなさい!」

 娘の視線を遮るような位置で父親の耳に口を近づけました。

「わかりますか?Hさん。娘さんが来てくれましたよ!わかりますね?」

 そして、

「あ、うなずいた!今かすかにうなずいたよ!君の声がわかったんだよ」

 と励ますと、娘はわっと泣き崩れました。

「お父さん、死んじゃ嫌!」

「お父さん、死んじゃ嫌!」

 娘の叫び声の中でやがて痙攣と呼吸が止まり、Hさんはようやく生きる苦しみから開放されました。

 葬儀はせず、遺体は枕経だけで火葬に付されました。娘に渡した骨壷の他に密かにもう一つ用意した骨壷は、死んだら連絡して下さいと冷たく言い放って電話を切った東京の妻子が引き取りに来るまでのひと月ほど、相談室のロッカーの上に安置してありました。


 Mさんの場合

 Mさんは、深夜の救急室に物々しく運ばれて来ました。待機していた二人の医師と三人の看護師が駆け寄って、モデルのようなMさんの身体を診察台に横たえました。手際よく挿管された気道に空気が送り込まれ、衣服は無惨に切り剥がされて、鼠径部から薬液が注入されました。医師の一人は骨も折れよとばかりリズミカルに胸部を押し、その度に耳と鼻と口から溢れ出る血液を、看護師がバキュームで吸い取りました。ハートスコープがわずかに波打ってはフラットに戻ります。医師でも看護師でもない私は、カルテの準備と身内への連絡を済ませると、

「しっかりして下さい!」

「もうすぐご両親が来ますよ!」

 頭部が陥没したMさんの見開いたままの瞳を覗き込んで、声をかけ続けるしかありませんでした。間もなくMさんの命に群がる緊張がはらりと解け、瞳は医師の手でそっと閉じられました。救急室の片隅では、床で膝を抱えて震えている若者の前に仁王立ちになった黒いジャンパー姿の初老の警察官が、

「…で、信号はどうだったんだ?」

 穏やかに聞きました。

「青だったと…思います」

 若者が答えたとたん、

「両方が青ということがあるか!相手も青だと言っているんだぞ」

 錐をもみこむように言いました。

「思いますということは、つまり自信がないんだな?」

 再び穏やかな声に戻った警察官の前に、

「済みませんでした…」

 若者は力なく両手をつきました。

 若者はMさんに恋をしていました。Mさんは若者の申し出を断り続けましたが、諦め切れない若者は、一度だけでいいから二人きりで会って話を聞いてほしいと懇願しました。会ってきちんと断った方がいいと考えたMさんは、若者と食事をし、既に恋人がいる事実を打ち明けました。若者はやりきれなくてビールを一本だけ空けました。Mさんを助手席に乗せて送り届ける帰り道、侵入した交差点の信号が赤でした。左から侵入して来た軽自動車のブレーキの音が、Mさんがこの世で聞いた最後の音になりました。

 Mさんの身体は管轄が医師から警察へ移りました。駆けつけた両親は、ステンレスのテーブルの上で無造作に計測を受ける娘を前に、悲しむ弾みを失って呆然と立ち尽くしていました。


 まだまだ書き留めておきたい人々の最期がありますが切りがありません。

  死ぬ時は迷惑をかけたくないからね…とブラウスの前ボタンを自慢げに外して見せた八十代の女性の体には、無用の延命処置はするなと墨書したサラシが巻きつけられていました。農薬を飲んだところを発見されて一命を取り留めた男性は、医療費の相談に来た折に、あんな苦しい思いは二度としたくないと述懐して行きました。別れた男に死んで復讐しようと決意をし、プロパンガスを充満させた車内で最期の煙草に火をつけた女性は、顔面と両手の皮膚に火傷を負って、ミイラのように包帯を巻いた体で病棟を歩いていました。暴力団同士の抗争で一旦死んで蘇生したおにいさんは、ベッドの周囲に患者を集めて、死ぬ時に見た綺麗なお花畑の話をしていました。

 こうして人間の最期にまつわるエピソードを一つ一つ丹念に振り返ってみると、「死」というものが大変個人的なものであり、本意、不本意を問わず、関係する人々に言い知れぬメッセージを残して行く出来事であることが判ります。時には死んで欲しいと呪い、そのとたんに何を考えているのだと自分を責め、かと思えば一日でも長く生きていてくれと祈り、亡骸に取りすがって泣き崩れ、真っ白な骨を前に、もはや手の届かない人になってしまったのだと自分に言い聞かせる…。そのようにして千々に心を乱しながら、縁ある人を送る経験を通じてしか、生きているうちに自分の死と向き合う方法はありません。何人もの知人に死なれ、仲間を送り、かけがえのない人を失って、ようやくこの世に存在することのはかなさを思い知るのです。死は、そんな経験の積み重ねの果てに、それでも覚悟できるかどうか判らない人生の難事なのです。

 高齢社会は、たくさんの人が死ぬ社会でもあります。仏壇の宣伝は以前からありましたが、最近では墓石の広告も、葬儀社の広告も、さらには葬儀費用が出ることを売り物にした生命保険のコマーシャルまでが登場するようになりました。各地で開催される遺言についての学習会は活況を呈しています。身寄りのないお年寄りの入院に際して、身元保証と同時に財産管理や葬儀まで一括してお世話をしましょうという大変あざといNPOが現れました。福祉施設の入所者の最期を一定のルールに従って看取れば、介護報酬に看取り介護加算が上乗せされるようになりました。後期高齢者医療制度では、回復の見込みのない患者の最期に関する計画を本人や家族の合意を得て作成したかかり付け医に、終末期相談支援料という名前で報酬が算定されました。さすがに終末期相談支援料については高齢者自身の猛反発に会って凍結されましたが、忌み嫌う対象であったはずの「死」が、いよいよ日の当たる場所に出てきたことは確かです。自由経済は需要と供給ですから、身近になった死がビジネスの対象になることを否定するつもりはありません。しかし国家が、加算や支援料を設定して、死に関わる専門職に、人々の最期を一定の方向に誘導する意図を示すことには慎重であらねばならないと思っています。繰り返しになりますが、死は、それを巡って、関係する人々に言い知れぬメッセージを残して行く、予測不能の、極めて個人的で厳粛な出来事であり、軽々に数や費用の問題に還元すべきものではないと考えるのです。