命名の副作用

平成20年08月04日(月)

 『乞食』が『路上生活者』と呼ばれている間は、物乞い、あるいは、路上で暮らす人々という生活実感が呼称から伝わって、彼らの貧しさや苦しさや、悔しさや哀しさまでが、私たちの暮らしの延長線上に存在していましたが、ホームレスと呼ばれるようになったとたんに、私たちとは一線を画す別の社会の構成員として認識されてしまうのはなぜでしょう。

 『労働意欲も学習意欲もない人々』と言えば、非難や軽蔑の対象になりますが、ニートと呼んだとたんに、特別なポリシーを持った集団か、あるいは時代の落とし子のような印象を持つのも不思議です。

 『定職に就かない人』も同じです。「ちゃんと安定した仕事に就かないと将来困るぞ」と苦言を呈しようにも、「ぼくフリーターです」と言われてしまうと、「ま、色んな生き方があるからなあ…」と認めるしかありません。

 『派手な服装をして盛り場に集まる女子中高生(広辞苑)』は、『こギャル』と呼ばれて市民権を得ましたし、『オヤジ』と言えば、貴重な経験を積んだ人生の先輩という側面は削ぎ落とされて、共感不能な異世代の男たちというイメージでひとくくりにされてしまいます。さらに『オヤジギャグ』と続けば「寒っ」という反応までセットになって、ジョークの内容よりも、年配者が若者に斬って捨てられるやり取りが笑いを誘うシナリオになっているようです。『アダルトチルドレン』と言えば、彼の身に世代を超えてのしかかる家族関係上の苦悩に思いを馳せるまでもなく、「ああ、ACね」と分かった気になりますし、うちの学校には『モンスターペアレント』がいてね…と教員が嘆けば、どんな理不尽な苦情が持ち込まれているかを聞かなくても、「うわ、そりゃ大変だ」と即座に同情してしまいます。そして、対人恐怖に陥ったのは中学時代に教員から受けた叱責のせいだと逆恨みして、ナイフで当時の担任を刺し殺そうとした若者を、『モンスタースチューデント』と表記している記事を読むに至って、これはいかんと思いました。

 言い古されたことではありますが、人は命名する生き物です。行きずりにどんなに美しい花を見つけても、花の名前を知らなければ、フィルムのないカメラのシャッターを押したのと同じです。印象は定着しないで、やがて思い出すよすがさえなくなってしまいます。しかし、マスメディア主導の情報という権力が、政治も景気も左右する力を持つようになった今こそ、名前をつけることの弊害にも心を留めなくてはなりません。

「竜馬かあ…三十三歳で暗殺された薩長同盟の功労者だよね。僕は好きだなあ、坂本竜馬…」

 と言う時、会ったこともない竜馬の実像を、実はいかほども理解してはいないように、ヒトラーを、毛沢東を、信長を、秀吉を、私たちは本当に分かってなどいないはずです。パリも、ローマも、ロンドンも、ニューヨークも、知っているつもりになっているに過ぎません。飛騨牛を、比内鳥を、一色ウナギを、名前だけで知ってるつもりになっているからこそ、産地偽装が成立するのです。この種の弊害は、弊害と言うよりも、むしろ命名につきまとう宿命のようなものですが、こと社会事象や心理問題に関するネーミングが、個別性も背景も押し流すようにして横行するのは困りものと言わなくてはなりません。

 『セクハラ』という言葉によって、性的いやがらせに属さない、たわいもない日常会話の潤いがどれほど封じ込められたことでしょう。『パワハラ』という言葉によって、上司たちは、理不尽な部下いじめに属さない正当な叱責についてまで、どれほど臆病になったことでしょう。生きている以上、辛いことの一つや二つ経験するのが当たり前ですし、それに耐えたり、それを乗り越えたりしながら、人は精神的な成長を果たすものですが、『トラウマ』という言葉によって、貴重な経験がどれだけ「傷」として認識されることでしょう。『ワーキングプア』と言う言葉も、『負け組み』という言葉も、自分がそれに該当すると意識した労働者たちの気力をたちまち萎えさせてしまう魔力を持っているような気がしますし、『パラサイトシングル』という言葉などは、いい年をして親から自立しない不甲斐なさを、今ふうの生き方のひとつにすり替えてしまったように思います。

「うちの子、実は不登校でして…」

「不登校ですか…。絶対に登校を促してはいけませんよ。学校に行かないという方法で成長しているのですからね」

「最近、夫がちょっと鬱っぽくて…」

「鬱に励ましは禁物ですよ。とにかくゆっくりと仕事を休んで、精神科を受診することです」

「最近、夫の暴力がひどくて…」

「ドメスティックバイオレンスですね。危険な状態ならシェルターをご紹介しましょう」

 格差社会、ゴミ屋敷、児童虐待、老人虐待、ネットカフェ難民、老老介護、認認介護、介護難民、孤立死…。聞いただけで分ったような気になるネーミングは、象徴機能としては大変優れているのでしょうが、分ったような気になることによって、本当に分ろうとする努力を奪う副作用があることを忘れてはなりません。『3K職場』と言えば、きつくて汚くて危険なだけの労働環境のように聞こえますが、そこには3Kだからこそ味わえる達成感も誇りも喜びもあるはずですし、『KY』と呼ばれる人の主張には、空気が読めないだけでなく、全体の流れに逆らってでも訴えたい内容があるのではないかと考えて見なければなりません。『改革』は、何を改革するのかこそが重要ですし、『規制緩和』もどんな規制をどんな目的で緩和するのかが大切なのです。

 これからも学者や評論家や政治家やマスメディアによって次々と気の利いたネーミングが続々と生み出されることでしょうが、ラベルを貼って特定のカテゴリーに位置づけることで理解したつもりにならないで、個別の事情に分け入る態度を失わないようにしなければと思うのです。