水の旅、いのちの旅

平成20年10月15日(水)

 ぼんやりと滝を眺めていて思いました。

 轟音と共に滝壺に落ちてしぶきを上げる大量の水は、元を正せば山に降った雨ということになります。山を覆い尽くす草木の根にずしりと抱きかかえられた雨水は、少しずつ地表に滲み出して細い水流となり、高きから低きへと集まった川の流れが一気に落下して目の前の瀑布になっているのです。

 さらに滝壺から流れ出た水の行方に思いを馳せると、やがて別の流れに合流し、さらに大きな流れに合流して、最後は名の知れた河川となって海に注ぎます。海に注いだ水は海流に乗って海原を駆け巡り、照りつける太陽の熱で蒸発して空に上り、冷えて水滴となって大空を漂います。成長して雲と呼ばれるようになった水滴は、時に氷の粒となり、次第に自らの重みに耐え切れなくなって落下する途中で雨となり、再び大地に降り注いで山のふところに抱きかかえられるのです。

 つまり水は、与えられた条件によって、液体から気体へ、気体から個体へ、固体から液体へと姿を変えながら海と空の間を循環しているのです。その間に水は、おびただしい緑を育て、たくさんの水中生物に酸素を供給し、動物の体内を通過して組織に栄養を運びます。ダムに蓄えられて電気を起こし、湯船を満たして人々の疲れを癒し,公園の噴水となって市民の目を楽しませ、濁流となって家を押し流します。ある時は産湯として赤子の体を清め、ある時は末期の水として死に逝く人の唇を濡らし、ある時は酒となって人々を酔わせ、冬の窓ガラスで露を結んだかと思うと、万年雪になって山の頂を飾り、この瞬間も排泄物と一緒に下水管に流されています。鍋の中から立ち上り空中に溶けてしまった湯気を含めて、水は変幻自在に形を変えながら色々な仕事、つまりは経験の旅をしているのです…と、ここまで思いを巡らして来て、まてよ…と立ち止まりました。

 私たちの「いのち」も同じようにはるかな旅をしているのではないでしょうか。誕生で姿を現した「いのち」は、死によって、誕生以前の世界へ還ります。何も持たないでやって来た「いのち」は、せっせと作り上げ、手入れをし続けた自分の肉体すら捨てて、再び何も持たないで還って行くのです。水がダムや湯船や噴水や産湯を経験するように、「いのち」は、男や女や子どもや年寄りを経験します。水が人の渇きを癒したり、濁流となって家を押し流したりするように、「いのち」も、愛したり憎んだり、支配したり服従したりするのです。親を困らせたかと思えば子供に悩まされ、素敵な人に出会ったかと思えば嫌な上司にいじめられ、宝くじが当たったかと思えば株で大損をし、立派な社会的地位を築いたところで逮捕されたり…と、実に様々な経験をして還って行くのです。そうか!「いのち」は経験をするための旅をしているのか…と思ったとたんに目の前の滝の音が全く違った響きを持ちました。水はたった今、滝を経験しています。落ちて滝壺を経験し、下って急流を経験し、やがて淀みを、大河を、ついには海を経験する水が、自分がこれから辿る旅の行方を知らず、今はただ滝の経験に打ち震えて精一杯の声を上げているのです。

 せっかく就いた仕事が自分に向かなくて、苦しみの果てに転職した息子を思いました。母親の余命を知らされて散々迷った末、専門学校を続けますと報告に来た四十代の学生を思いました。高カロリーの点滴につながれて、来る日も来る日もじっと天井をにらむ高齢の女性患者の姿が目に浮かびました。

 「いのち」が旅をしています。

 行き着く先は死ですから、急いではいけません。

 「いのち」は、旅で出会う出来事を味わいにやって来たのです。

 海に出るまでに水が何度も岩に砕かれるように、「いのち」の旅にもつらい出来事が待っていますが、経験の大半は選ぶことができません。しかしそれに翻弄されるか、それを味わうかは選ぶことができます。そして味わうつもりになると、つらい出来事に寄り添うようにして存在する嬉しい出来事が目に留まるようになるのです。

 さて、そろそろ帰ろうか…。

 立ち上がって振り返ると、名も知らぬ草の葉が滝のしぶきに打たれて盛んにお辞儀を繰り返していました。