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銀ちゃんの乾杯
平成20年11月14日(金)
「おう、銀ちゃん、いいところへ通りかかったなあ。ちょいと珍しい酒が手に入ったからさあ、つまみ持ち寄ってみんなでパアっと楽しんじゃおうと思ってるところなんだ。どうだい?寄って行きなよ」
「ほう…そりゃあ結構だねえ。けど残念だなあ…。寄りたいのは山々だけどさあ、野暮用があるんだよ。せっかくだけど、今回は遠慮すらあ。また誘ってくんな」
「んなこと言わないでさあ、寄ってきゃあいいじゃねえか、付き合いだよ、みんな集まってんだ。しまいまでいろとは言わないからさ、乾杯だけして、一つ二つ歌でも歌って、適当に消えちまえば付き合ったことになるんだ。そうだよな、みんな」
「そうだよ、銀ちゃん、寄ってきなよ」
「いや本当に、そうもしてられねんだ、悪いけど」
「何だい銀ちゃん、そっけないなあ。さっき、おめんち覗いたら留守で、留守ならしゃあねえなあと思ってるところへ偶然通りかかったから誘ったんだ。誘って断られたんじゃこっちの気持ちがざらつくじゃねえか。長い時間じゃないよ。一杯だけ付き合えば、それで立派に付き合ったことになるんだからさあ。こっちは誘った、そっちは付き合った。どうだい?双方気持ちがいいだろう?」
「いや、有難いんだけどさ、一杯だけ付き合って席を立つってのも辛いからさ、わかってくれよ」
「んなこと言わないで、こうやってる間に乾杯ぐらいできるじゃあねえか、わかんないなあ。付き合いなよ」
「いや、せっかくだけど、今日のところは…」
「やい、銀公!」
「な、何でい、お、大きな声出しゃあがって」
「誘われてるうちが花だってことが分からねえのかい、このバカ野郎。お前はいいやつだけど、そこが悪いところだぞ。乾杯だけでもしてけって、席空けてみんな待ってんじゃねえか。いいか、一緒じゃ酒がまずくなるからって、声かけてもらえねえやつだっているんだぞ。一杯だけでも付き合えって誘われるのと、一緒はごめんだって嫌われるのと、どっちがいいんだい!え?どっちがいいんだ!」
「そ、そりゃあ…」
「そりゃあ、何だい」
「おれが悪かった、一杯だけ付き合うよ」
「そうだよ、それでいいんだよ。素直じゃなかった罰だ、お前が乾杯の音頭とりな」
「わ、わかったよ、拉致だな、まるで。それじゃ、みんな、誘ってくれてありがとよ、乾杯!」
江戸の長屋の若い連中のやり取りを落語的に想像してみましたが、いかがでしょう。率直で、風通しがいい会話だとは思いませんか?
これが現代となるとどうでしょう。地域の付き合いなどというものは絶えて久しいですから、もっぱら舞台は職場ということになりますが、
「係長、週末あたりどうです?一杯飲りませんか?」
「悪くないねえ…で、メンバーは?」
「一応、係りの親睦ということで…」
「係りったって、あの二人は出にくかあないか?子持ちの主婦だぞ」
「誘うだけ誘って、あとは本人の判断ということでいいじゃないですか」
「派遣の職員はどうする?割り勘だと負担じゃないか?給料がだいぶ違うからなあ」
「飲み会の費用に差をつけちゃ本人たちも心苦しいでしょう。負担だと思えば参加しませんよ。強制じゃないんですから」
「しかし、あの連中が不参加となると、おれとお前を入れてわずか三人ということになるぞ。いくら何でも三人じゃ淋しいだろう…」
「それじゃあ他の係りにも声かけますか?」
「他の係りかあ…。人数が増えると日程とか調整が大変だぞ。うるさいやつもいるからなあ。お前、幹事やるか?」
「嫌ですよ幹事なんて。やれ会場が遠いだの、料理がまずいだの、会費が高いだのって、ろくなことがないですからね。いっそ係りとか親睦とか言わないで、有志が集まったという形にしましょうか?」
「しかし、有志となると、声をかけた、かけなかったで、あとでもめるんじゃないか?それも面倒くさいぞ」
「やめますか」
「そうするか」
といった調子ではないでしょうか。江戸の長屋と比べると、人の思惑ばかりを気にした、何とも風通しの悪い会話です。
どこが違うのかを考えてみました。
要は個人に立ち入る深度の違いではないでしょうか。
個人情報の保護や守秘義務がやかましい時代になって、プライバシーには立ち入らないことが相手を尊重する態度のようになりましたが、その実人間は、立場や肩書きではなく、生活者同士としてのつながりを得て初めて安心する存在です。
「あの、明日、休みを取りたいのですが…」
と申し出て、
「それじゃ、届けを出しておいてくれたまえ」
と言われるよりも、
「おふくろさんが悪いんだったよなあ…。大事にしてやれよ」
と言われた方が暖かい気持ちになります。しかしそのためには、母親が身体をこわしているというプライベートな領域に踏み込んだ関係でなければなりません。そういう意味でば、本当に相手を人として尊重する態度といえば、プライバシーに適度に立ち入る態度であるとも言える訳です。適度の程度がわからなくて傷つけたり傷ついたりしながらも、子どもの頃は当たり前のようにできていた率直な対人態度が、大人になるに従ってできなくなって行きます。立ち入り過ぎないことを、礼儀、或いは思いやりとして学習し、できるだけ傷つけたり傷ついたりしない対人距離を学んで行くことが即ち社会人としての成長である訳ですが、人と距離ができればできるほど、できた隙間を寂しい風が吹き抜けるのもまた事実です。寂しさに耐えるのが大人なのだという考えを取れば、前述した職場のエピソードになりますが、「やい、銀公!」と相手のプライベートにぐいっと立ち入れば、長屋の付き合いが始まるのです。
問題は個人に立ち入る深度ですね。
「どう?変わりない?」
「父親の具合が悪くて色々大変でした」
「え?お父さんが?一体どうされたの?」
「ちょっと、それは個人情報なので…」
「あ、ああ、そうなんだ…で、入院してらっしゃるの?」
「それもちょっと、プライバシーということで…」
「だから君も元気がないんだね?」
「いえ、私はちょうどいま女の子なんで、ブルーなんです」
「女の子って…ああ、生理ね、あれ?生理はプライバシーじゃないの?」
「女子高でしたから、そういうの割合平気なんですよね」
久しぶりに訪ねて来た卒業生との会話です。
どうですか?何だか変だと思いませんか?
自由だ個性だ権利だと、自尊感情ばかりを肥大させてしまった現代は、個人の事情に立ち入ったり立ち入られたりすることについての規準が、若い人たちだけでなく、いい年をした大人たちの間でも混乱しているようです。私生活については互いに一切触れないまま、当たり障りのない話題で過ごす学生たちも、周囲に気を遣い、飲み会ひとつ計画できないサラリーマンたちも、手に負えない状況になるまで、眉を顰めてごみ屋敷を遠巻きに見守るしかない地域住民たちも、江戸の長屋の住人たちの対極に住んでいます。他人との距離に臆病になる余り、川を挟んだ向う岸の人に接するようなお付き合いを思い切ってやめて、「お前はいいやつだけど、そこが悪いところだぞ」とからりと言ってのける勇気を奮ってみると、案外相手は銀ちゃんになって、気持ちよく乾杯ぐらいしてくれるのかも知れません。
終