外側の壁

平成20年03月30日(日)

 講演を依頼された弥富町の会場に出向くべく、私はその日、JRの名古屋駅で亀山行きの普通列車に乗り換えました。名古屋が始発にもかかわらずプラットホームには大勢の乗客が並んでいました。そこが階段に近いせいでしょう。到着した列車から降りる客が私の並んだ位置のドアに集中したために、隣のドアの乗客は既に乗り込み始めたというのに、私の列は客が降り終わるのを待たなくてはなりませんでした。ようやく乗車し、ドアのすぐ脇の、そこだけが通路と平行に設置された二人掛けの席を確保してほっとした私の隣りには、年配の女性が座っていて、

「あれ、あんた座れなんだん?」

 目の前に立つ同年輩の女性に声をかけました。

「ひと足違いで座れなんだ…」

 と嘆息されてはたまりません。

 私は黙って席を立ちました。

 すかさず私の席に座った女性は、吊り皮につかまっている私の好意に気が着いて、

「済みませんねえ、ご親切に、申し訳ありません」

 二人ながら礼を言って、やがて話しにうち興じ始めました。どうぞ・・・とも言わないでさりげなく席を替わる親切を、ちゃんと認識して感謝する高齢者・・・。素敵な一日の始まりのはずでしたが、車内を見回すと心は穏やかではいられませんでした。

 対面式のシートの通路側に、一抱えもある紙袋で窓側の席を占有して、険しい表情で座る体格のいい中年女性がいました。向かい合ったシートで、品のいい初老の夫婦が並んで楽しそうに談笑していましたが、

「立っている人がいるのですよ。荷物を膝に乗せたらどうですか」

 と注意する気配もありません。

 私を含めて近くで立っている乗客たちは、非常識な女め!という非難を込めて、時折り鋭い視線を送るのですが、女性の顔は陶器のように他人の感情を撥ね付けています。通路を挟んだ反対側の席では、女性に負けないくらい体格のいい中学生が、携帯ゲームに夢中になっていました。

 三つ目の駅でジャージィ姿の年配の男性が乗り込んできて、彼女の横に立ちました。男性は明らかに理不尽な紙袋の存在に気がついた様子ですが、時代劇に出てくる長火鉢の前の姐御のような女性のふてぶてしさに気後れしています。

「あの…荷物、よかったら網棚に乗せましょうか?」

 親切を装って私が口火を切れば、事態は動くのではないかと思うのですが、いらざるお節介のような気もします。第一たとえ私の機転で荷物を棚に上げることに成功したとしても、果たしてジャージィの男性は、威圧感に目鼻を付けたような女性の隣りに座る気になれるでしょうか。しかし、席が空いたのに誰も座らないとなると、荷物を上げさせた私の立場は微妙です。だからといって、

「折角空いたのですから、お座りになったらどうですか?」

 などと男性に指図するのもおかしなものでしょう。

(ええい、面倒くさい。そもそも座りたいやつが直面すればいい問題だ。座る気のないオレが頭を悩ませることじゃない)

 そう思ったとたんに、嘘のように気持ちが軽くなりました。そう…。私自身が座りたいのであれば、私は私の主体性で女性に席を空けてくれと要求すればいいのです。一般論としての義憤めいた感情に支配されるのは、自分の心に染み付いている、『弱者には席を譲るべき』という価値観が人を裁いているのです。そう気がついてからもう一度車内を見回すと、それまでとは景色が一変していました。女性は確かに非常識ではありますが、憎むべき悪女などではなく、そこ空いてますか?と言われれば即座に荷物を膝に乗せるべく身構えています。ジャージィ姿の男性は、言って席を空けさせることもできるだろうが、大きな荷物をそこまでするのは気の毒か…と、その程度に思って車窓の景色を眺めています。周囲の乗客は、自分とは関わりのない出来事として平然と吊革を握っているのです。

 我々が対象を評価する行為は、同時に自分の価値観をあぶり出す行為でもあるという自明の真実に、改めて気がついた瞬間でした。私は世の中を平明に見ているつもりでいながら、実は世の中の事象を通じて自分の価値観を見ていたのです。直接自分に関りのない日常の些細な事柄に人一倍腹を立てる私の傾向は、実は正義感などという高尚なものではなく、自分の価値観が通用しない事態に不安を感じていたのです。

 ふと見ると、あの二人の女性の姿がありません。さっきの駅で降りたのです。代わりに若いカップルが座っていました。

「有難うございました。おかげで座って来られました。ここ空きますのでどうぞ…」

 降りる時は席を代わってくれた人間に声ぐらいかけろ…と、以前の自分だったらチクリと腹を立てるところでしたが、そんな湿った感情からは解き放たれていました…と、目の前の若い女性がバックから手鏡を取り出して化粧を始めましたが、それもいつものようには気になりませんでした。私の中にあって私を窮屈にしていた強固な壁が崩れたのです。楽になりました。楽になりましたが、同時に新しい不安が生まれました。こうして私はゲームに夢中になっている中学生と同じように、周囲に無関心な人間になって行くのではないでしょうか。社会を構成する人々の価値観の多様性を是とする社会は、即ち自由な社会である訳ですが、そこで暮らす人々にとって本当に幸せなことなのでしょうか。万人が共有する価値の面積が広ければ広いほど、実は安心できる社会なのではないでしょうか。私の心の壁の崩落が、人を殺してみたかった…などという若者の出現を、そりゃあ色んな人間がいるからな…と達観する姿勢につながって行くとしたら危険です。そして世の中は確実にそちらの方向に進んでいるような気がするのです。

 バスで携帯電話の使用を注意した男性が、注意された男性に殺されるのを、乗客たちが何もしないで見ていた事件を思い出しました。完璧な包囲網を敷いていながら、刃物をもった男性に次々と切りつけられる通行人を守れなかった警察官たちの心中を思いました。

 もしも一緒に同じバスに乗っている息子が、携帯電話で会話する不心得な男を注意しようとしたら、

「偉いぞ、違反を見過ごすのは同罪だからな」

 と励ますでしょうか?それとも、

「こんな場所で堂々と携帯電話を使うのは間違いなく非常識な人物だ。注意して聞くような人じゃない。やめとけやめとけ」

 といさめるでしょうか?

 もしも息子が警察官になって、ナイフを所持する凶悪犯人を逮捕するために出動したとしたら、

「いいか、身を挺して市民を守れ。それが職務なのだからな」

 と送り出すでしょうか?それとも、

「馬鹿な勇気を奮うんじゃないぞ。お前が刺されって誰も誉めやしない。家族が泣くばかりだからな」

 と言うのでしょうか?

 列車が弥富駅に着いてからも私を悩ませ続けた脈絡のない想念が今この文章を書かせています。

 どうやら崩落した心の壁の外側を、もうひとつ分厚い別の壁が高々と取り囲んでいたようです。