残酷ないたずら

平成21年11月16日(月)

 Sくんは親友です。ソーシャルワーカーとして勤務していた病院の経営方針が、彼にとって不本意な方向に変わり、真剣に転職を考えていたところを、教員にならないかと誘って、しばらくは同僚でした。Sくんはメトロノームのように規則正しいリズムを刻んで、ゆっくりとしゃべる愛すべき人格者で、

「何かとっても深くて大切なことを説明して下さっているのはわかるのですが、眠くて…」

 学生たちからはそう言われています。

 授業に対して人一倍真摯な態度で臨むSくんは、教科書に知らない文献が引用してあると、早速その文献を購入します。購入した書籍にまた別の文献の引用があると、それも手に入れて読み始めますが、そこにはまた新しい文献が紹介してありますから、壁一面を覆うように作りつけられた彼の家の書棚は、そうやって増え続けた書籍で埋め尽くされています。理解した内容を、制限された時間内に懸命に伝えようと苦悩した結果が、

「何かとっても深くて大切なことを説明して下さっているのはわかるのですが、眠くて…」

 という学生たちの感想になるのです。

 Sくんは、学生たちと酒を飲むときも真摯です。勧められるままにグラスを口に運び、アルコールの摂取量が一定の限界を超えると、からくり人形のようにガラッと酔っ払いに変わって、人の名前を手当りしだい英訳し始めます。

「おい、ツリービレッジ、飲んでるか」

 と肩を抱かれるのは木村です。

「イン・ザ・ファーム、お前、酔ったのか?」

 とビールを強要されるのは田中です。

 マウンテン・ファームは山田、ウォーター・ヴァレーは水谷、スモール・ウッドは小林…と、このあたりまでは直訳できますが、

「評判いいぞ、シュガー」

 これは佐藤の意訳?ですし、コットン・パンが、綿鍋、つまり渡辺を意味するところまで来ると、即座に理解できる人はわずかです。

 やがてネクタイを頭に巻きながらよろりと立ち上がり、

「よし!みんな、今夜の宴会とかけて思春期の娘の胸と解く。その心は、盛り上がった…なんて言うのはセクハラだぞ、セクハラ」

 視線を泳がせながらSくんが訳の判らない演説を始めると、宴はそろそろお開きが近づいているのです。

 ここまで書くと、関係者にはSくんが誰だか特定されてしまいますが、彼にもプライバシーがありますから、ここではSくんで通すことにいたしましょう。

 しらふの時のことです。

 遠方から通勤するSくんは、350円の座席指定料金を払い、急行ほどではないが快速よりは速く走る、セントラルライナーを利用していました。私はわずか二駅の通勤距離ですから普通電車で十分です。職場からプラットホームまで一緒に歩き、

「じゃあな」

 と手を振ると、

「乗れよ」

「セントラルライナーだろ?」

「二駅ぐらい検札は来ないよ」

 Sくんはこういうところが人格者でありながら愛される所以なのです。Sくんが言うのだから検札は来ないと素直に信じられるような安心感が、そのメロンパンのような笑顔からにじみ出ています。

 Sくんの隣の窓側には髪の長い若い女性が座っていました。私はSくんの座席の脇に立ちました。運悪く検札が来たら、Sくんにそそのかされたと言いましょう…とそこへ、思いがけず共通の友人であるRとAが通りかかりました。

「おい、何だ、珍しい」

「同じ列車だなんて偶然ですね、おれたち二つ向こうの車両なんですよ」

 二言、三言、言葉を交わしはしたものの、静かな列車の中では立ち話もはばかられ、

「じゃ、またな」

 と別れる間際のことでした。

 RがSくんの耳に顔を近づけて、ささやくように…といっても十分周囲に聞こえる音量で言いました。

「もう電車の中で痴漢なんかしないでくださいよ」

 こういういたずらにかけては、Rは定評があるのです。

 一瞬、隣の女性がSくんを見て不愉快そうに顔を背けました。気の毒なのはSくんでした。言い訳をしようにもRとAはさっさと別の箱に消えました。座席は指定されて身動きがとれません。

 目的の駅に着き、私は電車を降りました。

 動き始めた車内を振り返ると、哀れなSくんは、文庫本に視線を落としたまま受験生のような表情で運ばれて行きました。