巨大ということ

平成21年06月07日(日)

 私の住んでいるマンションの裏に、道をはさんで閑静な住宅があります。堅牢だが物々しさを感じさせない門構えの奥に、よく手入れした和風の庭園が広がり、木造二階建ての母屋に平屋の離れが寄り添って、きれいに掃き清められた玄関からは、住む人の心根が偲ばれます。隣接した広大な空き地には、ポツンと残された白壁の土蔵を遠巻きにして、瓦屋根の付いた黒い土塀が取り囲み、かつてそこに建っていたお屋敷のただならぬ様子を物語っていました。ところがある日、突然黄色いユンボーが二台やって来て、土塀と土蔵を容赦なく取り壊し、巨大なマンションの建設が始まったのです。

 地上十四階建ての、そびえるようなマンションの完成図が貼り出されましたが、気の毒なのは隣の木造家屋でした。和風の住宅は決して天には伸びません。あくまでも地を這う発想です。せいぜい二階建てで、部屋が必要になれば横に建て増しをして廊下でつなぎます。そして、どの窓を開けても自然の中にいるかのように石と草木を配置するのです。日増しに空へ伸びてゆく青いシートは、草木を愛でる心情とは対照的でした。住宅のあるじならずとも心の痛む光景が続きました。日照権などという形而下の問題より前に、美意識という点で激しい違和感を抱きました。電車の座席を昂然と占有して、文句があるかと胸を張る相撲取りを見るような厚かましさも感じました。義憤と同情を無力感で包んだまま、どれくらいの日数が経ったのでしょう。マンションは突然完成しました。突然と書いたのは、シートが取り払われたとたんに鮮やかに全容を現した巨大な建物は、工事の始まりと同じくらい、唐突に出現したような印象を受けたからでした。私は思わず、美しい…と息をのみましたが、それと同時に、美しいと感じている自分自身に驚いていました。民家との間には予想した違和感も圧迫感もありません。調和しているのか?と聞かれれば、それも違います。つまりマンションの大きさは、違和感や圧迫感を生じさせるサイズをはるかに超えているのです。

 巨大すぎる存在は、どうやら比較の対象ではなく、背景になってしまうようです。生き物としての私たちの感性には、自ずと生き物としての限界があるのですね。その限界を超えてしまうと、比較や変化の認識から生ずる生々しい感情が生まれないのです。そういえば中国旅行で見た故宮や長城の大きさも、間近で象を見たときのような実感を伴っては蘇りません。東京都庁もニューヨークの摩天楼も映像を見たようなよそよそしさでしか思い出せません。物理的なサイズだけでなく、高度、範囲、時間的経緯において一定のサイズを超える事柄は、生き物の情報処理能力を容易に超えてしまいます。処理能力を超えた情報は抽象的な思考の対象にはなり得ても、日常レベルの行動には結びつきません。だから家庭から出るCO2の排出量を削減するための重要な会議が、昼間から照明をつけ、冷房を効かせた会議室で行われるのです。電磁波が人体に及ぼす悪影響についての警告を、テレビやインターネットで配信して矛盾を感じないのです。消費によってしか回復しない不景気に、人々は財布の紐を固くすることで対処しようとするのです。

 今日も窓を開けると、大きなマンションと小さな和風住宅が都会の一風景を構成しています。かつてそれを見て、比較を超えた巨大なものに対する警戒を感じ取っていたことなど記憶のかなたに追いやるように、吹き渡る風が街路樹をのどかに揺らしているのです。