介護難民の現状と職能団体の役割

平成21年06月22日(月)

 アパートで一人暮らしをしている高齢者が、重い障害を得て経管栄養の寝たきり状態になっても、在宅のサービスを最大限に活用して、最後までアパート生活を続けられる体制が実現したとしたらどうでしょう。北欧並みの高福祉社会ですよね?首相自らが中福祉中負担を公言して憚らないわが国では、到底実現しそうもない夢のような話だと思っていましたが、実はもう身近で一部そんな試みが行われているのです。ただし注意しなければならないのは、基本的な前提が違っています。寝たきりになっても暮らし続けられるアパートではなくて、寝たきりになってからしか入居できないアパートなのでした。しかも入居に当たっては次のような条件が設けられています。経管栄養であること…従って、たいてい本人は意思表示が満足にできません。アパート経営者の指定するケアマネジャーのプランにより、アパート経営者の指定する専属の事業所から介護サービスを利用すること。同じくアパート経営者の指定する医師の訪問診療を受け、その指示に基づいてアパート経営者の指定する専属の事業所から訪問看護と訪問リハビリを利用すること。おむつ等の日用品の購入はアパート経営者に一任すること。そして、アパート経営者及び担当する医師の双方に対して、病状が悪化しても在宅で診て欲しい…つまりは、そのアパートで死なせて欲しいという内容の要望書を提出しなければならないのです。ここまで来ると、アパートを舞台に展開している寝たきり高齢者の生活は、決して北欧並みの高福祉が実現した姿などではなく、寝たきりの高齢者を対象にした、かなりきわどいビジネスであることに気がつきます。

 家賃は月額3~4万円ですが、利用する電動ベッドのレンタル料金は月額5万円です。家賃より高額なベッドの利用料なんて通常は考えられませんが、介護保険が適用になりますから、本人の負担は月額5000円ということになります。看護師が毎日8:00と17:00と22:30の3回やって来て、経管管理を中心としたケアをして行きます。22:30の訪問看護には月1回、緊急時の加算や特別管理の加算がついています。隙間を埋めるように毎日14:00にはヘルパーが1人で30分の身体介護に入り、11:30にはヘルパー2人で行う身体介護が週2回入って、これで介護保険の限度額である358,300円を27万余り超えてしまいますが、超えた分は医師の特別指示書に基づいて医療保険へ請求されます。他に医師による週3回の訪問診療と、その指示の下で毎日行なわれる拘萎防止目的の訪問リハビリが医療保険に請求されますが、1級の身体障害者として重度福祉医療が適用になるので、限度を超えてしまった訪問看護の費用を含め、医療保険部分に本人負担は生じません。本人は介護保険の負担額である35,830円の他に、家賃と、食事に相当する経管栄養の代金と、おむつ代などの費用と15,000円の家族会費なるものを加えて、月額14万円ほど支払えば、冒頭に書いたように、在宅のサービスをフルに活用して最後までアパート生活を続けられることになるのです。月14万円と言えば、特別養護老人ホームや老人保健施設のホテルコストを加えた本人負担額と比較しても、決して高い金額ではありません。あくまでも在宅ですから、月額2万6千円余りの特別障害者手当ての支給を受けることができ、これを支払いに充てると最終的な本人負担は11万円程度に納まって、人ひとりの生活をお任せするにしては破格の低料金が実現してしまうのです。しかし問題は、入居に当たって、病状が悪化しても在宅で診て欲しいという要望書をなぜ提出する必要があるのでしょうか。ベッドしかない殺風景な部屋ですから、入居者が入院しても、家賃さえ滞らなければ、アパート経営者にとっては何の支障もないはずです。そこにこのビジネスのきわどさがあるのです。

 前述したように、介護サービスも、医療サービスも、日用品の購入も、高額なベッドのレンタルも、提供は全てアパート経営者に委ねられていて利用者に選択の余地はありません。ところが、本人に入院されてしまうと、これらのサービスが提供できなくなってしまいます。しかも退院して戻って来る日のために、家賃が滞りなく支払われたりすれば、サービスを提供できない状態で部屋が1つふさがってしまいます。アパート経営者にとっては恐らくそれが困るのです。入院したら退去しろという契約には違法性がありますが、在宅で診て欲しいという入居者側の要望に主治医が沿うのであれば違法性はありません。違法性どころか、後期高齢者医療制度や、施設における看取り加算の創設で明らかになったように、国はむしろ在宅での看取りを推奨しているのです。そこで、事業所は別仕立てであっても、全てのサービスがアパート経営者によって提供されていると想定すればどうでしょう。最後まで在宅で診て欲しいという要望書も含めて、入居に当たって課せられる条件の意味がくっきりと腑に落ちるではありませんか。しかも、この形態のアパート経営は、食事も排泄も入浴も外部のサービスを利用しているのですから、有料老人ホームの定義からは外れます。従って、法で定められた行政に対する事前の届出は必要なく、監督も受けません。全室、経管栄養の寝たきり高齢者ばかりが入居するのですからケアスタッフには移動のロスがなく、まるで病院における回診のように効率的にサービスの提供が可能です。病院や施設の運営は人間の命と人権に関わる責任の重さに照らして、様々な人員、環境、運営上の基準や規制の下に置かれていますが、そこで死ぬ約束までさせて、多数の寝たきり高齢者ばかりを入居させていても、施設ではなくてアパートであれば、一切の法的規制も監視も受けないで運営が可能なのです。実に巧妙なビジネスであるといわなければなりません。この形態でアパートとサービス提供を一体的に経営すれば、ざっと計算しても高齢者1人について経営者には月に100万円程度の収入が入ります。20人ほど入居させるだけで、月2000万円、年に2億4000万円の収入です。何しろ介護保険と医療保険の両方をフルに利用するのですから、保険から支払われる金額だけに限って比較してみても、単独保険で運営される療養型の医療機関や老人保健施設や特別養護老人ホームなどに入所した場合の、ほとんど2倍の保険料が費消されている計算になります。その上、入院や入所の状態では対象にならない特別障害者手当までが税金から支給されるのです。

 考えてみれば、国が長期入院を許さない医療保険のしくみを導入したのは、高騰する医療保険の支出に耐えられないからでした。単価の高い医療の対象者を福祉に移し、単価の高い入所の対象者を在宅に移し、単価の高い終末医療を在宅での看取りへ誘導して、なりふり構わず経費の削減に努めた結果生じたのが介護難民でした。とりわけ経管栄養を初めとする医療依存度の高い対象が被害者になりました。患者を長期に入院させては経営が成り立たない医療機関からは、病状的には入院治療の必要はありません…と退院を迫られ、頼みの老人保健施設からは、リハビリを目的としていますので…と入所を断られ、最後の砦の福祉施設からは、医療スタッフが手薄ですから…と門を閉ざされて、途方に暮れている家族の前に、まるで救世主のように出現したのが「寝たきり高齢者専用住宅」なのです。そこに入居してみれば、皮肉なことに、コスト軽減のために医療機関から排除した対象に、倍近いコストがかかっていました。

 さて、百聞は一見に強かずとばかり、過日、仕事上の縁のある女性の見舞いを目的に、くだんの寝たきり高齢者専用アパートに出かけて来ました。玄関を入った正面の看護師詰所のようなスペースをコの字形に囲むように同じサイズの部屋がずらりと並んでいました。職員が交代で常駐しているとしたら、誰が見てもこれはアパートではなく高齢者施設ですが、規定上はアパートなのです。専門家ではない私には、女性が横たわるベッドのレンタル料が月額5万円もする理由は判りませんでしたが、死亡した場合はもちろんのこと、入院すれば退去させられて、同じベッドをすぐさま新しい入居者が利用するのですから、ベッドはアパートと一体のものであるという印象を受けました。「気分はどうですか?」と声をかけると、女性は、鼻からクリーム色の流動物を流し込まれた状態で、「うまいもんが食べたいな…」と小さな、しかしはっきりとした声で答えました。この人は口から食べられる…。私は直感でそう思いました。彼女が食べたいと言ったからではありません。そもそも発語能力は咀嚼能力や嚥下能力の延長線上にあるものです。これだけしっかりと発語のできる女性が口から食べられないはずがありません。介護難民である彼女は、口から食べられる人は入居できないという条件があるために、鼻から長々と挿入された管を受け入れて、かろうじて居所を確保しているのです。それでも現場のスタッフは良心的なケアを行っているのでしょう。女性の身体は清潔に保たれていましたが、試しに「桜を見せに車椅子で連れ出したい」と要望してみたところ、「建物から外への移動は禁止しています」と拒絶されるに及んで、突然、養鶏場の光景が浮かびました。管でつながれて身動きできない介護難民たちがずらりと並び、巨額の収益を生み出しながら、死ぬ日が来るのをじっと待っています。目を開ければ白い壁しか見えない部屋の中で、季節の変化も時間の感覚も失った介護難民たちが、人間としてではなく、生き物として生かされているというだけで、公的保険から巨額な報酬が流れ込みます。そして余剰の報酬は各地で同様のアパートの建設やシステムの構築に投入されるのです。

 いかがですか?寝たきり高齢者専用アパートは介護難民の画期的な救世主と位置づけるべきでしょうか?それとも寝たきり高齢者を食い物にする悪徳業者と位置づけるべきでしょうか?私にはにわかに判断ができませんが、1ヶ月5万円という法外なベッドのレンタル料と、うまいもんが食べたい…という本人の訴えと、外出が禁止されているという事実からは大きな疑問を感じました。およそ「人権」も「尊厳」も、本人の「意思」を尊重するところから出発するとすれば、このアパートに居住した住人にどんな意思決定が許されているでしょう。ケアマネ事業者も介護事業者もクリニックも医療スタッフも、ベッドもサービスも日用品も外出も、病状が悪化したときの入院治療さえも本人が自己決定する余地は何一つありません。自己決定した上で入居したのではないかという理屈は、一見正しそうに見えますが間違っています。自己決定は複数の選択肢が存在して初めて成立するのです。介護難民たちには提示された条件を呑んでそこに身を寄せる以外に選択肢はないのです。そして絶対に見逃してはならないのは、悪意ではないにせよ、保険報酬の体系を様々に工夫して大量の介護難民を排出しているのはほかならぬ国家であるということです。

 現場のソーシャルワーカーたちは、所属する機関の要求と家族の事情とのジレンマに立たされたあげく、担当する高齢者をやむを得ずこの種のアパートに紹介することがあるでしょう。問題が解決したと晴れやかに胸を張るワーカーは論外ですが、一人の人間の晩年をチューブにつなぐ仲介をしたことに、多少とも後ろめたさを感じるワーカーには、その分の社会的責任が生じるものと思います。一般の住民は、医療依存度が高い患者を退院させざるを得ない医療機関の事情を知りません。それを引き受けられない福祉施設の困難も知りません。そこをビジネスにする事業者に巨額の報酬が流れ込むからくりも知りません。報酬は保険料と税金で構成されている訳ですから、「公金」と言わなくてはなりません。公金の使途にはそれを白日の下にさらす社会的責任が伴います。そしてソーシャルワーカーの報酬にも、たいていは少なからぬ公金が使用されているのです。所属する機関の利益とワーカーの正義が一致すれば問題はありませんが、両者は往々にして乖離しています。乖離している点にこそ社会改良の余地があり、指摘すべき社会的問題があるのです。ところがどんなに正義であっても、制度の不備や運用の問題点を社会に向かって個人で発言するには内部告発のような勇気と不利益を覚悟しなければなれません。そして、発言を断念したとたんにワ-カーは、現実を処理するだけの存在になり下がってしまいます。どうすればいいのだという答えが、職能団体にあると思うのです。

 公的な存在として弱い立場の人々の人権に関わる仕事に従事していながら、制度的な不備のために人権が保障されない現実と向き合ったとき、個人として発言する機会はなくても、所属する職能団体を通じて改善の必要性を訴えることは可能です。例えば、『介護難民の現状と課題~社会福祉構造改革の矛盾~』といったテーマで公開研講座やシンポジウムを開催するのです。ワーカー協会単独では実現不可能な予算規模であれば、他の職能団体と共催すればいいのです。大規模な企画に社会的な意義があれば、必ずやマスコミの関心を呼び、情報は活字になって一般市民はもちろん、官僚にも政治家にも届きます。それが世論を形成してゆくのです。内部の研修も大切ですが、勉強なら個人でも可能であるために、参加者はなかなか増加に転じません。私は協会が年に一回はソーシャルアクションの機会を設定することを提案したいと思います。分断している福祉領域の職能集団が共通のテーマで連携をし始めれば、思いがけなく大きな発言力を持つと同時に、ワーカーたちはソーシャルな立場を与えられた者にのみに許される誇らしさを回復するに違いありません。