芝居

平成22年07月05日(月)

 名古屋ドームの近くにある小さな焼鳥屋のカウンターに並んで座り、ビールと焼き鳥のお代わりを繰り返しながら、

「あれ?お前、まだその腕時計してたのか?」

 私が尋ねたのが芝居の始まりでした。

「ああ、これはおれのお守りみたいなもんやからな」

 友人がビールを飲みながら、しんみりと答えました。

「もうええやろ、そんな古い時計。お前はもう大丈夫やて、だろ?」

「ああ、結婚して子供も生まれて、もう簡単に死ぬわけにはいかん。あん時はどうかしてたんやな、ホント、生きてたってしょうがないと思った」

「ガスの臭いが廊下までして、夢中でドアを蹴破って、中に入って、窓、全部開けて」

「覚えてないなあ…」

 短く刈り込んだ白髪頭の店主は、カウンターの中で串を焼きながら、じっと聞き耳を立てています。

「だけどさ、結局、お前、未だに理由を話してくれてないんだぞ」

「わかんねんだよ、自分でも。あるだろ?突然何もかも意味ねえって感じること」

「まあな、若い頃っつのは生きてること自体が抽象的だからな」

「死にたくなったらこの時計を見ろ、何にも考えないで、秒針と一緒に息を吸って吐いて、吸って吐いて、一回転する頃には、またしばらく生きてみようと思うからって、お前、あんとき、恐い顔してそう言った。あれからこの時計、二度修理に出したんだぞ」

「今どき、手巻きの腕時計だからな、時計屋が困っただろう」

「秒針よりも、二日に一度ネジを巻く度にな、よしっ!おれも生きるぞって思うんだよ。おれがこいつに命を吹き込んでるみたいな気がしてなあ…」

「あれから何年だ?」

「ええっと、二十一歳の、今、四十二だから」

「おい、ちょうど二十年経ったってわけか」

「早いもんだよなあ…」

「北海道は遠いけど、どうだ、年に一度、ここでこうして会うことにしないか」

「いいなあ、五月二十三日は、おれの秒針がまた動き出した日だからな」

「それじゃ乾杯だ!」

 二人がコップを目の高さに掲げたとき、店の大将が、カウンター越しに砂肝とセセリをそっと一皿ずつ差しだしました。

「あれ?おヤジさん、これ頼んでないよ」

「いえ、サービスですから」

 店主はそう言うと照れたように笑いました。

 私たちはまさか、

「嘘だよ、おヤジさん。おれたち、お遊びでこういう芝居、よくやるんだよ」

 とも言えず、そのまま芝居を続けましたが、あれ以来、あの店には行きたくても二度と足を向けられないでいるのです。