芝居Ⅱ

平成22年07月06日(火)

 友人と休暇を取って新潟の福祉施設の視察に出かけたときのことでした。

 雪に閉ざされた平日の旅館には、宿泊客といっても友人と私の二人きりでしたが、

「朝食のご用意ができました」

 きちんと紫の和服を着たスタイルのいい仲居さんは、私たちを大広間に案内してくれました。だだっ広い畳の部屋の片隅に並べられた膳の前に座って、私たちは黙々と箸を運びました。仲居さんは、おひつの傍でまっすぐに背を伸ばしていました。ちらりと盗み見ると、眼鏡のレンズ越しに、彼女もちらりとこちらに視線を向けました。表情は動きませんが、プロとして客のわずかな動きにも気を配っているのです。和服よりもスーツを着せて、社長秘書でもさせたいような仲居さんに、

「すみません、お代わりいいですか?」

 友人が茶碗を差し出したとき、例によって悪い癖が出ました。

「何だ、お前、お代わりするのか、珍しいな」

 私の台詞が台本のない芝居の始まりでした。

「こうやって給仕してもらうと、つい思い出しちまってな」

「おふくろさんか?」

「…」

「施設ではお代わりはできなかったのか?」

「当番がどんぶりに盛りつけたら、それっきりだ」

「おふくろさんが亡くなったのは確かお前が…」

「小学校二年生のときだよ。今日みたいに雪が降る寒い日だった。授業中に先生からすぐに病院に行きなさいと言われて駆けつけると、おふくろの顔に白い布がかけられてた」

「辛かったな」

「怒ったようにじいっと黙っているおやじが、何だか別人みたいだった」

「それで、おやじさん一人じゃお前を育てられなくて、おふくろさんの実家に預けたんだ」

「だけどお前、預けられた先は、友達はいないし、田舎の言葉はわかんないし、おれ、帰りたくて帰りたくて、何度も家出しては連れ戻された」

「で、結局、養護施設ってわけだ」

「家族なんて夢みたいなもんだぞ。おふくろが死んだだけで、あんなに仲の良かった家族が消えちまった」

「…」

「お代わり!って勢いよく茶碗を突き出すと、おふくろが嬉しそうに笑ってな、よそってくれる白いご飯からは湯気が立っていた…。色々なことがあったはずなのに、おふくろの思い出っていうと白いご飯なんだよ」

「で、福祉施設で育ったお前が、今こうやって福祉施設で働いてる。不思議なもんだよな」

「ああ。不思議なもんだ」

 とそのとき、仲居さんの姿勢がにわかに崩れ、たもとからハンカチを取り出すと、わずかに眼鏡を持ち上げた隙間から目頭を押さえました。

「嘘ですよ嘘、おれたちよくこんなことして遊ぶんです。こいつのおふくろは元気でピンピンしてますよ」

 とはまさか言えないで、私たちは芝居を続けたまま旅館を立ちました。

 タクシーの中から振り返ると、雪の旅館の玄関に立って、紫の和服の仲居さんが深々と頭を下げていました。