男の日傘

平成22年08月01日(日)

 生まれて初めて日傘を買いました。男性用です。探すのに苦労しました。需要が少ないのですね。確かに町で日傘を差して歩いている男の姿は見かけません。しかし今年の陽射しは異状です。熱中症でたくさんの人が命を落としています。紫外線の危険も叫ばれています。この殺人的な日光を直接からだに浴びながら歩くのは、分別のあるオトナのすることではありません…が、男は日傘を差すことはないのです。なぜでしょう。

 人が集団として不合理な行動を取るときは、きっと背後に、社会が集団に強いる古びた価値観が潜んでいるものです。男は日焼けなど気にするものではない。言い換えれば、肌をいたわるなど男のすることではない。もっと言えば、男は外見ではなく仕事や心意気や生きざまで評価されるべきである。従って外形的に美しくありたいと願う気持ちをあからさまにすることは、男らしくないことだという暗黙の規範が、男が日傘を差すのを阻んでいるのです。

 新調した学生帽も運動靴も、わざわざ汚してから身につけるほど外見には無頓着を装っていた男たちの美意識も、時代と共に大きな変化を遂げました。最近ではダイエットに励み、茶色に染めた髪をカラフルなピンで止め、眉を細く整え、電車の中で手鏡を見つめて前髪を直す若者まで登場したにもかかわらず、男は日傘だけは差しません。日傘には、それほどまで強烈に男女を分かつ社会的規範が関与していたのでしょうか。

 答えはすぐに見つかりました。

 購入した日傘を差して駅に向かった私は、頭上に日陰がついて来る快適さに小さな感動を覚えました。女たちはこんな便利な道具を用いて夏の陽射しから身を守っていたのです。しかし一方で、スカートを履いて町を歩いているような気恥ずかしさと闘わなくてはなりませんでした。すれ違った背後で女子高生たちの笑い声が聞こえる訳でもなく、追い抜いて行くサラリーマンたちが奇異な目で振り返るわけでもありませんか、日傘を差している自分が何とも消え入りそうに照れくさいのです。私は私自身の心を支配している不合理な美意識と闘っているのでした。男が日傘を差している姿は美しくない…日傘を差すような男の生き方は美しくない…。ふいに坂本竜馬を思い出しました。竜馬は和服にブーツを履いていました。続いて高杉晋作を思い出しました。ちょん髷の時代に晋作の髪型は散切りでした。二人とも秩序を変革する側の人間だったとは言え、秩序至上主義のあの時代に二人が直面した心理的抵抗は、日傘の比ではなかったに違いありません。

「竜馬さん、ブーツを履いて外を歩くのは恥ずかしくなかったですか?」

「おお、これか。わしゃあ幕府を倒す資金調達のために、越前までも歩くきの、わらじと違うてブーツは丈夫で便利なんじゃ」

「高杉さん、髷を切るときはさぞ勇気が要ったでしょうね?」

「これは牢に入ったときに剃った坊主頭が伸びただけじゃ。騎兵隊の結成に忙しゅうての、髪型のことなんぞに構ってはおられんわい」

 遠くを見ている男たちは魅力的ですね。

「小さい小さい、哲雄さん、おまんは人間が小さいぜよ。日傘ごときでうじうじしとらんと、まっと大きいことを考えや」

 心の中には竜馬の声が聞こえるのですが、前方から人が来ると、つい傘を低くして顔を隠してしまうのです。