朝の吉野家

平成22年10月13日(水)

 遠方の市で講演を頼まれました。

 車で出かける時は、渋滞や事故など不測の事態に備えて、時間にゆとりを持って出発しますが、その日の道路は嘘のようにスムーズで、予定より一時間以上も早く目的地に着いてしまいました。こうなると知らない土地は身を置く場所がありません。どこか喫茶店でもと思いましたが、朝食がまだだったので、カーナビで吉野家を探し、ゆっくりとB定食を食べながら時間をつぶしました。朝から牛丼というのは初めての経験でしたが、早い時間帯に食事のできる店となると限られてしまいます。席が空いているのを幸いに、ゆっくりと本を読みながら数人の客の入れ替わりを見送って、そろそろという時間を見計らってレジに立ち、ポケットに手を入れたとたんに、さぁっと血の気が引きました。

 財布がありません。

 小銭入れも名刺入れもありません。

 おまけに時間もありません。

「あの、済みません、財布を忘れて来たみたいで…」

「…」

 若い女性店員は無言で立ち尽くしています。

 店内の客がちらりと視線を向けました。

「あの…私、あ、何か書くものありませんか…済みません…こういう者ですが、今、急いでいるものですから」

 住所と氏名と家の電話番号と携帯の電話番号を、それが虚偽ではないことを証明するみたいにことさら淀みなく書いて、

「午前中の仕事が終わったら、帰りに必ず寄ってお支払いしますので、とりあえず、済みません」

 とりあえず済みませんと言われても店員は困ったでしょうが、ここで無銭飲食として警察に通報されては私が困ります。何か質に置いて行きたくとも適当なものがありません。それに何よりも時間がないのです。

 厨房から年配の店員が走り寄って、

「携帯、ちゃんとかかるかどうか確かめるんだよ」

 若い店員に小声で言いました。

 私はあからさまに疑われているのでした。

 幸い講演会場に持参した著書が完売したために、恥を忍んで主催者から拝借しなくても、約束通り

 「一、金五百円也」を支払って一件落着しましたが、解決する前の段階では、事態を誰かに知っていてもらわないと不安だったのでしょうね。講演前のわずかな時間を利用して、講師控え室から複数の親しい友人の携帯電話にメールで状況を伝えました。

 以下は次々と返って来た彼らからの返信です。

『ありゃ、そこまで来ましたか!明日はわが身と気をつけます』

『三百円送金してます。伝書鳩で。空を見ていてください』

『現金書留で吉牛に送りましょうか?』

『くわのみ(認知症のグループホーム)を予約してくだせえ』

『皿洗いしてください』

『何か、楽しんでますね』

 こうして並べてみると、短い文面にそれぞれの個性が出ていて面白いですね。読めば何の役にも立たない内容ばかりですし、助けを期待していた訳でもありませんが、気分が晴れたのは事実です。

 『ずっと空を見上げていますが、伝書鳩が来ませんよ』

 さらに送信した私のメールに対しては、さすがに心配したのか、帰りの電車賃を心配する文面が返って来ました。

 朝の吉野家…。

 今となっては牛丼の味よりも、無銭飲食の経験よりも、こういう仲間たちの存在が得がたい思い出になっているのです。