キツネとタヌキ

平成22年10月21日(木)

 松阪市の、これはまた別の話しです。

 近鉄松阪駅にお迎えに来て下さっていた講演主催者の女性と無事に出会えてほっとしたとたん、私は大変な空腹感に襲われました。確かに昼食は済ませて来るというお約束でしたが、朝食を食べないで家を出た私は、当てにしていた特急列車の車内販売が来なかったために、とてもこの状態で一時間半のお話しをする自信がありませんでした。

 ふと見ると「そば・うどん」と染め抜いた紺の暖簾が揺れて居ます。

「立ち食いそばをすすり込む程度の時間はありますよね?」

 と尋ねる私に力強くうなずく女性を外に残して、私は構内の片隅に店を構える小さな麺処に入って好物の「たぬきそば」を注文しました。

「へい、たぬき一丁」

 白い割烹着の店員は、カウンターの中で勢いよく麺の湯を切って、私の前に出してくれたのが、きつねそばでした。

「ん?」

「え?」

 一瞬の沈黙のあとで、

「あの…たぬきそば、お願いしたつもりだったのですが…」

 すると店員は脳に明かりが点ったように表情を変えて、

「あ、お客さん、関東の人ね」

 あれよあれよという間に、麺に乗った油揚げを箸でつまみ上げて流しのゴミ箱に放り込むと、代わりに大きめのスプーンで二回、三回、揚げ玉をふりかけながら、

「これ、値段はかけそばになりますから」

 と言いました。

「え?この辺では、たぬきそばは、かけそばなんですか?」

「たぬきそばは、さっきお客さんに出したそばですよ」

「あれはきつねそばじゃないんですか?」

 私は壁のメニューを見て、

「それじゃ、あのきつねうどんというのは、何が乗るんですか?」

「油揚げですよ」

「つまり、ん?どういうことですか?たぬきというのは…」

 揚げ玉のことではないのかと聞こうとして混乱してしまいました。

 店員は面倒臭そうですし、私は空腹です。しかも人を待たせていて時間がないのです。

 上あごも焼けんばかりの勢いでかけそば扱いの謎のたぬきそばを喉に流しこんで、その疑問をお迎えの女性に尋ねましたが、

「関東と関西で違うのでしょうかねえ…」

 と要領を得ませんでした。

 整理してみましょう。

 メニューには「きつねうどん」も「たぬきそば」もありますが、「たぬきそば」を注文すると「きつねそば」が出てきて、本来の「たぬきそば」に変えてもらうと「かけそば」扱いなのです。

 帰ってインターネットで調べてみると、答えはあっけないほど簡単でした。

 大阪では、油揚げが入ったうどんを「きつねうどん」、そばを「たぬきそば」と呼ぶのです。

 「かけうどん」や「かけそば」に揚げ玉を入れても、それはサービスで、特別なメニューではありません。名前も値段も「かけうどん」と「かけそば」のままなのです。

 ですから、いわゆる「たぬきそば」が食べたければ、

「おっちゃん、かけそばに揚げ玉入れてんか」

 と言えば「かけ」の値段で「たぬきそば」が食べられるのです。

 大阪だけが特殊なのでしょうか、それともどこかに境界線があるのでしょうか。興味はつきませんが、地域によって名前が意味する内容が異なるのは混乱します。そして、「たぬきそば」程度のことなら不便で済みますが、「自由」、「平等」、「人権」、「尊厳」、「愛」、「正義」、などといった、判ったつもりになっている言葉の数々が、人によって、立場によって、地域によって、国によって、違った意味で使用されていたりすると、深刻な紛争の火種になるのではないかと思うのです。