劣化

平成22年11月27日(土)

 わずかな例から全体を語るのは危険であることは承知の上で、それでも一度に数匹の魚が浮けば、川に何らかの異変が起きていると疑ってみる価値があるように、十年も教員をしていると、時系列で感じる若者の変質に、この国の劣化を見ることがあります。

 非常勤講師をお引き受けした大学の大きな階段教室では、遅刻して来た女子学生がヒールの音も高らかに最上段から堂々と下りて来て、最前列の資料を取ると、再び最上段に戻ったところで携帯電話が鳴って、

「うん、これから授業。ウソ?じゃあすぐに行くね」

 と、教室を出て行ってしまいました。

 友人の教員が頼まれて出かける大学では、授業中に教室の机の陰でトランプをしている六人ほどの学生を見とがめて、出て行きなさいと叱責すると、ありがとう先生と喜んで出て行ったそうです。

 小学生ではありませんよ。大学生の話しです。もちろん、そんな学生は多くはないし、科目によっても状況は違うでしょうが、ここでは針ほどの穴から全体を見ようとしています。

 学生は、試験に落ちても追試のレポートを提出すれば卒業できることを知っているのですね。もちろん目に余れば留年という可能性もありますが、同じ科目で複数の落第生を出せば、担当教員の指導力が疑われます。しかも世の中は少子化です。たいていの大学は学生募集に四苦八苦しています。勢い、昔のような競争試験ではなく、推薦入学枠や、学力よりも特技を評価して入学させるAO受験という方式が増えています。そんな中で、入学しても留年させる学校だという評判が立って、次年度の推薦やAO受験者の減少につながれは、学校の存亡に関わります。学校が無くなれば、教員も事務員もたちまち失業するのです。

 しかし、まるで幼稚園バスのように、無料通学バスを広範囲に走らせて、学力不足の学生までかき集めれば、授業のレベルが落ちるのは当然です。入学させた学生に学力を超えた授業を実施して、ついて来られないからといって単位を与えないのは、学生の側からすれば理不尽です。結局、経営のために入学の垣根を低くすることで、教員はもちろんのこと、本当に学問をしたくて入学した学生のモチベーションまで下げて、この国の学問の府は、全体として限りなく劣化してゆくのです。

 学力を離れても、さらに別の角度からの劣化を指摘しなければなりません。それは対人関係の保ち方に関することですから、劣化というよりは変化というべきかも知れません。まずはいくつかの事実を羅列してみましょう。これも針の穴から覗いた景色として理解して下さいね。

 私と話しをしている間も携帯電話を片時も離さず握りしめている学生がいました。訳を聞くと、就職試験を受けた会社から留守電に、またかけますというメッセージが入っていて、内定の知らせかも知れないので、今度は絶対に電話に出ようと身構えていると言うのです。

「自分からかけたら?」

 という私に対する彼女の答えは意表を突いていました。

「いえ、お忙しいのにお電話したりしては、ご迷惑になるといけませんから」。

 こんなこともありました。前日に親しく話しをした学生と翌日廊下で出会ったら、知らん顔をして通り過ぎようとするので呼び止めて、

「おい、挨拶ぐらいしようよ」

 と言うと、

「私なんかかがご挨拶すると、先生も挨拶をしなければならなくなって、それはご迷惑かと思って」。

 行き過ぎた気遣いの結果としての失礼というのがあるのですね。

 遅刻をした学生が理由を言わない傾向も顕著です。授業の冒頭で出席をとるので、申し出なければ遅刻は欠席にカウントされます。受講回数は成績に関わりますから、遅刻した学生は授業の最後に申し出るのが通常ですが、

「先生、私、います」

とだけ言って去って行く学生を見ると痛々しくなります。

「今、ちょうど忙しい時期で、仕事が片づかなくて、電車一つ乗り遅れるとどうしても遅刻してしまいます。不愉快だと思いますが、どうかお許し下さい」

 とでも言えば、

「働きながら夜間の通学は大変だよな、無理して体を壊すなよ。事情が分かれば配慮だってできるんだから」

 と、こういう展開だってあるのです。

「そうは思わないか?」

 と遅刻の多い学生に助言すると、

「先生、遅刻は遅刻ですよ。僕は言い訳したり媚びたりするのは嫌いですから」

 これが返事でした。

「言い訳と、媚びと、気遣いは、それをする側の動機による分類だよ。自分の非を取り繕うのが目的なら言い訳だし、相手に取り入ろうとすれば媚びだし、きちんと説明して相手の不快感を軽減しようとすれば、それは気遣いだ。何度も遅刻されて、自分の授業が軽んじられていると感じている教員に事情を説明するのは、気遣いでもあるとは思わないか?」

 と言ったら、ようやく理解してくれました。つまり、言い訳をしないことによる失礼もあるのです。

 実は社会に出ると、テストの点数よりもこういった能力の方が重要になるのです。

 学生と飲み会をしても、関係が深まらないのも最近の特徴です。昨夜、あんなに飲んで語って楽しい時を過ごした事実が嘘のように、次の日は初対面の関係に戻ってよそよそしいのはなぜでしょう。少人数の学生に誘われて飲んだ翌日の教室でも、

「先生、昨日はとても楽しかったです。またおつき合い下さいね」

 と明るく声をかけられたことがありません。なぜなんだ?と、学生に理由を聞いた時のやりとりです。

「俺たちだけで先生と飲んだなんてバレると、色々言う人もいますからね」

「言われたっていいだろう。仲間で飲もうということになって、たまたま先生を誘ったら、偶然予定が空いていたって、そう言えばいい。今度お前も誘うよって」

「そうは行かないですよ」

「誰だよ、色々言うやつって」

「いえ、誰って訳じゃないですが…」

「具体的に誰かが何かを言うんじゃないのか?」

「だれも直接は言わないけど、何となく、その、後ろめたいって言うか、居心地が悪いっていうか」

「それって、本当は、他人が飲む時、自分が外されると不愉快なんじゃないのか?だから自分が飲んだ時も外された人は不愉快に違いないと勝手に思ってしまう」

「う…そうかも知れませんが、でも、今、みんなそういう風ですよ」

「みんなって、つまり、誰が誰と飲んだか、お互いに秘密なのか?」

「結局、そのうちバレますけど、まあ、秘密です。誘われなかった人に悪いですからね」

 どうですか?最近の若者たちの心中は、こんなに細やかな気遣いで溢れているのです。

 ここまで来ると、気遣いは臆病と区別がつきません。いつだって自分の言動に不快を感じる誰かを想定して躊躇していたら、精神は萎えてしまいます。だから飲み会をしても関係が深まらないのです。教員室に気軽に入って来る学生が少ないのです。グループで議論を深めることができないのです。この種の雰囲気が一旦集団を支配すると、個人の努力は空しいですね。

 しかし程度の差はあれ、同様の臆病が私の心にも棲んでいます。同様の雰囲気がこの国を支配しています。集まったメンバーの相性や、集団形成過程のエピソードや、土地柄によって、それが色濃く発現する場合と、珍しく開放的になる場合がありますが、基本的にはその種の臆病が、長期間どこの国とも国境を接さずに、農耕をなりわいにして来た民族の、抜きがたい処世の体質になっているのでしょう。それが、小さくは、学生たちが飲み会を秘密にする風通しの悪さにあり、大きくは、複数の隣国の猛々しい振る舞いに、確固とした意思表示を避けて、誰が悪い、彼が悪いと、内向きの議論を繰り返す国家の代表たちの体たらくがあるのです。