非常識な母子

平成22年04月26日(月)

 岐阜駅から乗った豊橋行きの快速電車での出来事です。

 窓際には四十代前半とおぼしき母親が座り、向かい側の座席には小学校高学年の男児が仰向けに寝そべっていました。母親の隣りの座席には大きな旅行カバンが置かれ、向かい合う座席の間はもっと大きな黒いキャリーバッグでふさがれてました。男児は二人分の座席に長々と体を横たえているのですから、母と子で四人分の座席を占有した格好です。たまたま傍らに立った私に気を遣ったのでしょう、母親は、仕方がないなあ…といったふてくされた態度で座席の荷物をキャリーバッグの上に乗せました。私は軽く会釈して母親の横に腰を下ろしましたが、向かいで横たわる男児のことが気がかりでした。熱でもあるのかと思うのですが、それにしては時々辺りを見回す目が元気そうです。腰か膝に不具合があるのかとも思うのですが、それにしては時折勢いよく寝返りをうつのです。母親にもこれといって心配している様子はありません。しかし通路に数人の客を立たせたまま平然と子供を寝かせている以上、よくよくのことに違いありません。だれの思いも同じなのでしょう。周囲の乗客は、最初は心配そうに男児を眺め、やがていぶかしそうに母親を見、ひょっとして非常識な親子?と一瞬疑ってから、まさかね、きっと何か事情があるんだよね…と思い直して視線を車窓に移すのでした。

 一宮駅でさらに乗客が乗り込んで、通路は混雑の度を増しましたが、母親には寝そべる男児を座らせる気配はありません。名古屋駅で乗客の乗り降りがあり、通路が大勢の乗客であふれた時、ようやく母親に動きがありました。指で子供の背中をトントンと突いて、

「もうすぐ金山だから、靴を履いてね」

 ところが子供は全く反応を示しません。

「ほら、もう着くから、靴を履かなきゃ」

 促す母親に子供は視線を送るのですが、無視をして悪びれた様子もありません。ひょっとして耳に障害があるのでしょうか?それとも知的な障害を持っているのでしょうか?

 列車が速度を落としました。母親が立ち上がって、左手に旅行カバンを提げ、右手にキャリーバッグを引いて通路に出た瞬間、目の前で信じられないような光景が展開しました。男児が素早く飛び起きてズック靴を履き、母親の後に続いたのです。同じ駅で列車を降りて中央線のプラットホームに向かう私の前を、母と子は名鉄線に続く人混みに足早に消えて行きました。荷物の量から推して、セントレア空港に行くのでしょう。まさか飛行機の座席は寝そべる訳にはいきませんが、あんなふうに育てられたらどんな大人になるのだろう…と思ったとたんに、稲妻のように鮮やかな答えがひらめきました。

 子供は彼を育てた人のようになるのです。

 やがて人に迷惑をかけて省みない態度が学校で問題になると母親はこう言うのです。

「あんなに叱らないでやさしく育てたのに、どうしてこんな横暴な子になったのでしょう」

 同様に、ささいなことでも怒鳴ってしつけられた子供は、しつけの内容よりも怒鳴るという態度を学んで大人になります。将来、認知症になった母親が粗相をすれば、子供はかつて自分かそうされたように、容赦なく母親を怒鳴りつけるに違いありません。

 宿題やるまでご飯は食べさせませんよと罰を与えられて育った子供は、宿題をすることよりも人を罰で支配する大人に成長し、やがて介護が必要になった母親に、

「ご飯こぼしたら夕食は無しだからね!」

 と言うようになるのです。

 人は遺伝では伝えきれなかった自分の性質をこういう形で子供に引き継いでいく存在なのでしょう。当然といえば当然のことですが、無意識下の動機ですから自分ではなかなか気づくことができません。子供は親の背中を見て育つという古い格言は、こういう意味だったのですね。だとすれば、子供には夫婦を含めて、たくさんの大人の背中の見える環境が必要です。子供たちが大人の言うことではなく、することを学んで生きて行く存在である以上、周囲に比較の対象をたくさん用意することで特定の個性への無批判な傾倒を防止するしかありません。

 さて、今頃あの非常識な母と子はどこをどんなふうに移動していることでしょう。それもまた、わが身に比較を迫る親子の在り様の典型なのだと考えると、人間の多様性について貴重な教訓を得た一日であったように思います。