高台から眺めた組織論

平成23年07月13日(水)

 補助金の不正受給で社会的制裁を受けた社会福祉法人から、再発防止努力の一環として、法人の理事や自ら運営する特別養護老人ホームの管理者クラスを対象に、法令遵守について九十分程度の話をして欲しいと依頼がありました。初めて取り組むテーマであり、法律家でもない私の手に負えるだろうかと戸惑いましたが、不正が発覚すると刑事責任を問われ、損害が伴えば民事責任が生じるなどという自明の理に関する話しを期待されている訳ではないと思い直し、手始めに社会福祉領域で発生した不正事件について調べてみたところ、実にたくさんあるのですね。

 典型的なのは施設建設を巡る補助金の不正受給でした。本来社会福祉法人が用意すべき自己資金を一旦建設業者が立て替えて、その分を水増しした建設費の中から回収するという手口です。資金はないが土地を活用したいと考えている地主に持ちかけて、法人設立から施設建設までを建設業者が指南する訳ですから、公正な業者選定が行われたように装うための談合入札がついて回ることでしょう。過去には国の官僚までが関与して収賄事件に発展した事件がありました。法人は水増しした建設コストに対して支払われる公金の不正受給を初め、それにまつわる複数の罪に問われることになる訳です。

 職員定数を満たしているように書類を改竄して介護報酬を不正に受給していたコムスンは、全国展開の大手株式会社であっただけに事件は大きく報道されて、失墜した介護業界のイメージは今も回復途上ですが、一般企業と違って社会福祉法人が運営する福祉施設は、公的機関に近い扱いをされて税を免除されていますから、金銭にまつわる不正の手口は、脱税のからむ事件のような複雑さはありません。架空費用計上による裏カネの捻出、利用者からの預り金の不正流用、基準を満たさないケア内容での報酬請求、そして金銭はからみませんが、不適切なケアや虐待が主な内容です。

 何しろ福祉施設は利用者を住まわせて自己完結する、いわば密室運営で、利用者には発言能力が乏しく、しかも行政の監督は書類監査です。実施されたサービスでも記録がなければ行ったことにはならない代わりに、記録さえあれば架空の行為でも実施したことになります。そういう意味で福祉施設は不正の温床になり易い環境であると同時に、発覚するとしたら内部告発か、利用者の家族からの訴えによる場合が多い領域と言えるでしょう。隠蔽を前提とした故意による不正は告発されて罰を受けるべきです。社会福祉事業の運営に支払われる費用の大半は、税や保険料等の公的な資金です。自力で稼いだ所得に課される税金を不正な方法で免れようとする一般企業の脱税行為とは本質的に性質を異にします。いわば庶民のふところに直接手を突っ込んで金銭を盗み取る卑劣な行為ですから、医療従事者も含めて自分の得る報酬に公的な資金が含まれている仕事に携わる者には、限りなく公務員に近い立場であるという自覚が必要です。そこで問題になるのは、現場で無自覚に繰り返されている不適切なケアや虐待、現場レベルの不正経理等の防止です。

 組織とは、共通の目的を持った構成員の役割が分化し、統合された集合体です。組織を構成する三つの要素、つまり、共通の目的、役割の分化、役割の統合のそれぞれが健全に機能していれば、組織もまた健全に運営されるはずですから、ここではその一つ一つについて検討を加えて行くことに致しましょう。

 まずは共通の目的についてですが、これが一筋縄では行かないのです。

 私の場合、社会福祉士の養成校に勤務していますから、組織の目的は社会福祉士の養成です。いたって明瞭で疑いの余地はありません。ところが社会福祉士とは何かということになると必ずしも明瞭ではありません。本質的には社会福祉分野で相談援助業務に携わる専門職として、必要な価値と知識と技術を身につけて、社会福祉士の国家資格を取得した者ということになりますが、専門職に相応しい能力を有していることの証明こそ国家資格であると位置づけたとたんに、ことは単純になって、国家試験に合格させることが私の職場の目的になってしまいます。ならば予備校のように受験対策にのみ力を入れて、たくさんの合格者を出せばいいのかというと、それは違います。一定の教育課程を経て、社会福祉士に相応しい専門性を身につけたことを前提に受験資格が与えられるのですから、資格の取得はむしろ結果であって、学校の目的はやはり専門性の涵養(かんよう)ということになるのです。

 ところが少子化と福祉人気の低迷で学生数が定員を割ったとたんに目的が微妙に揺れ始めます。本来なら入学の段階で、養成に足る一定の資質と能力を有する人材を厳選すべき選考基準が、一人でも多く入学させたいという経営上の理由でどんどん難度を下げ、以前なら入学が難しかった学生まで受け入れるようになるのです。専門学校だけではありません。同様の傾向は全国の大学で見られます。面接と作文程度の選考で入学を許可し、最高学府の教育内容に耐えられない学力の学生まで抱え込むことによって、熱意ある教員の意欲は下がり、意欲ある学生の士気も落ち、教育のレベルの低下を招いて教育機関の本来の目的からは逸脱してしまいます。しかし経営が破綻しては組織目的どころではありませんから、誰もが問題を認識していながら改める術もありません。組織目的が一筋縄では行かないというのはこういう意味です。

 同様のことが福祉施設でも生じます。

 パンフレットにはどこの福祉施設も利用者の人権尊重、尊厳重視、利用者本位、社会正義などと高邁な施設理念を謳っています。しかし身元引受人がないという、本人の責に属さない理由で入所を拒むのは人権尊重の理念に適うのでしょうか。医療依存度の高い介護難民こそ積極的に引き受けるべきではないでしょうか。家族の意向を優先して無理やり入所させるのは尊厳を無視した行為ではないでしょうか。利用者負担金の支払いに不安があるというだけで門を閉ざすのは社会正義にもとらないのでしょうか。火が心配だからといって、六十年も吸い続けた喫煙を禁止するのは利用者本位のケアと言えるのでしょうか。現場は抽象的な理念や目的では判断のつかないたくさんの現実に直面します。組織目的は構成員が共有するものである以上、経営者はその一つ一つに明快な答えを用意する必要があります。用意できなくても現場の職員と悩みを共有しながら一緒に解決方法を模索する側に立たねばなりません。理念は理念、現実は現実という姿勢が経営者側にちらりとでも見えたとたん、組織目的はいとも簡単に画餅と化してしまうのです。

 さらにここで、組織目的とは別に個人目的という問題にも触れなくてはなりません。

 組織の構成員は組織目的のために集まっていると同時に、それぞれが個人目的を持っています。収入を得る。安定した暮らしを得る。承認の欲求を満たす。所属の欲求を満たす…。組織目的と個人目的が相反していない間は問題ないのですが、収入に不満があったり、昇進を巡って足の引っ張り合いがあったり、職場の人間関係に深刻な不和があったりすれば、人の意識は容易に組織目的を離れてしまいます。昇進競争を優位に展開する目的でライバルが誘発した仕事上のミスが、組織に致命的なダメージを与えることだってありますし、いじめの対象になって職場から排除された者が、腹いせに組織の暗部を公表することだってあります。個人的な借金に苦しんで、利用者からの預かり金に手をつけてしまうことだってありますし、人間関係上のストレスを利用者への乱暴な扱いに転化する場合だってあるのです。大変困難なことですが、組織を運営する立場の者、あるいは一人でも部下を持った者は、組織目的だけでなく、成員の個人目的についても関心を払わなくてはなりません。

 次は役割の分化です。

 複数の構成員が与えられた職務を遂行することによって、全体として組織目的が達成できるように役割を分化した様子は、組織図で示されます。組織図はちょうど枝分かれした樹木のように、小さな組織が結合して大きな組織を形成しています。仕事の内容や場所のまとまりを単位にした末端の組織を部署と呼びますが、複数の構成員がいる限り、部署毎に意思決定に責任を持つ立場の者が必要です。この場合、意思決定というところが大切です。小さな部署であっても、自分の部署のことは自分たちで決めることができる。そこに仕事に対する問題意識と改善意欲が生まれます。上からの指示を伝達して、実行を管理するだけの責任者ではいけません。組織図を作成する時は、どの範囲の意思決定を任せることができるかを慎重に検討して部署の区割りを決めなくてはなりません。これは単に組織の最小単位を設定する作業ではなく、末端の成員が創造性を発揮するための装置を開発する作業なのです。人は創造性を封じ込められた時、単に労働時間を切り売りする存在に成り下がります。組織が生きるも死ぬも結局は末端部署の活性度にかかっていることを忘れてはいけません。

 最後は分化した役割の統合です。

 いつだったか両足を下腿から切断する手術を受けた道路工事の作業員がこんな話をしてくれました。

「昼の休憩時間にコンビニまで歩いたら、舗装したアスファルトがまだ熱うてな、長靴が熱で溶けて足の裏からゴムの毒が入ったんや。糖尿病は末梢の感覚が低下するのは知っとったが、まさかここまでとはのう」

 組織が生きるも死ぬも結局は末端部署の活性度にかかっていると書きましたが、末端部署は末梢神経です。感覚が低下すると、組織は両足を切断した作業員と同じ運命をたどります。末端部署が発する組織全体に関わる情報は、良い情報も悪い情報も速やかに然るべき意思決定部署に伝達されなければなりません。とりわけ悪い情報は歓迎すべきでしょう。すえた臭いや酸っぱい味を、鼻や舌が鋭敏に感じ取って脳に伝達するから、生体は腐ったものを食べる危険を免れています。組織も同様で、末端部署が発信する不和やトラブルやクレームの情報こそが、組織の病巣の在処を知らせ、早期の手当てを可能にするのです。

「本日また入浴時に、利用者が危うく転倒するニアミスが発生しまして…」

 という報告に、

「困るね、しっかりしてくれないと。君の部署はミスが目立つよ。何かあったら責任取ってもらうからね」

 こんな対応が返って来れば、情報は部署で止まったまま二度と上がりません。

「大事に至らなくてよかったが、度々ニアミスが発生するところを見ると、浴室の床材が滑るんじゃないか?原因を追究して、材質を変えるとか、手すりを取り付けるとかの対策が必要なら言ってくれよ、予算は何とかするから」

 これなら報告をする甲斐があるというものです。組織は生き物です。脳の命令に末端が従い、末端からの情報で脳は次の判断をしています。脳と末端をつなぐ神経細胞である部署毎の責任者の果たす役割の重要性は、どんなに強調してもし過ぎではありません。配置に当たっては、任に足る人材の吟味が大切なのはもちろんのこと、配置された責任者には部署をまとめるだけでなく、下と上をつなぐ神経細胞でもあるという強い自覚を求めなくてはなりません。

 さて、目的と役割分化と統合という、組織を構成する三つの本質的な要素について考えて来ましたが、結局、組織は一人の人格であるということに尽きるように思います。

 目的を持って生き生きと生きる。そのためにあらゆる細胞が相互に情報を交換しながらそれぞれの役割を果たす。休息も娯楽も必要でしょう。社会の役に立っているという自負や誇りも大切です。何よりも、不具合が生じれば、速やかに修復する内部システムが作動しなければなりません。組織は、そのようにして、直面する事態に柔軟に対応し続ける運動体であるのです。ただ癌細胞の存在だけは深刻です。全体の調和とは無関係な欲望を内部に有し、周囲の細胞を壊しながら増殖する存在は、早期に発見して外科的に取り除くしかありませんが、手術には危険が伴いますし、後遺症も想定しなければなりません。ましてや本来健全な細胞を癌細胞に変化させるストレス因子が組織内にあれば、除去したところで次が発生することでしょう。癌細胞がまだ萌芽の段階で、進行や転移をくい止め、環境改善を図る周囲の細胞の力がどれだけあるかが、詰まるところ組織の体力ということになるのでしょう。

 目新しい結論に達したわけではありませんが、組織という人間の営みを改めて考える機会になりました。組織を拡大して行けば、国家になり、やがて世界にもなるような時代を我々は生きています。書き終えてみると、私の中にかろうじて、世の中を眺める高台の一点が得られたように思っています。