コンクリートの箱

平成23年09月30日(金)

 マンションは巨大なコンクリートの箱です。玄関の自動ドアを開けると、たいてい目の前にもう一つ扉があって、住人はパネルの鍵穴にキーを差し込まなければ自分の建物に入れません。来訪者はパネルのボタンで来訪先を呼び出して許しを得なければドアは開きません。個人の部屋の玄関は金庫の扉のように二重ロックの鉄のドアで外界と遮断され、居間は、金網を埋め込んだ分厚い強化ガラスの窓を閉めてさえおけば外の音は嘘のように聞こえません。つまり、徹底的に住人の安全とプライバシーを守ることがマンション設計のコンセプトなのです。

 個人を隠蔽する意志を持つコンクリートの箱の住人は、まるで建物の意志に追随するように、郵便受けにも部屋のドアにも自分の名前を表示しません。故郷の田舎では、町内のお互いが顔見知りであることが住民の安心を支えていましたが、都会ではお互いを知らないことが安全を守る条件なのです。

 そんなマンションの住人になって六年目。輪番で自治会の組長になった私の郵便受けに、自治会長から一通の調査依頼が届きました。敬老祝い金を渡すので、昨年九月以降の転入者のうち、昭和二年十二月までに生まれた者を報告せよという内容です。私は早速簡単な調査票を作成し、すべての郵便受けに配布して返事を待ちました。提出期限を過ぎて私の郵便受けに返って来た調査票は二枚でした。出勤の途中で寄り道をして、調査票をそのまま会長宅に届けて役割を終えたと思ったのが間違いでした。

 忘れた頃に二人分の敬老祝い金を持って会長が私を訪ねて来ました。

「え?私の役割は調査するだけではなかったのですか?」

「いえ、該当者にお渡しいただくことになっています」

 会長の自転車を見送って、さあ配ろうとして愕然としました。

 二つののし袋には、渡すべき相手の名前が鉛筆で小さく書いてあるだけで、部屋番号がありません。部屋がわからなくては届けようがないのです。

「あの、お渡しした調査票に部屋番号があったはずですが…」

 電話で問い合わせると二十分ほどして返事が来ましたが、会長は一人の部屋番号を伝えたあとで、

「実は何度も探しましたが、もうお一人の調査票がどうしても見あたらないのです」

 申し訳なさそうな口調で言いました。

「いえ、コピーをとらなかった私が迂闊だったのです。私のマンションのことなので、こちらで何とか致しますから…」

 と、今度はマンションの管理会社に電話をしましたが、

「ちょっと待って下さいね、ええっと、契約者の名前なら分かりますが…」

 コンピューターを操作する気配が伝わって、

「そういう名字の契約者はいませんねえ」

 こうなるともう調べる方法がありません。

 とりあえず番号の分かっている一人分の祝い金だけでも届けようと部屋を訪ねたら留守でした。時間帯をずらして二日間、朝、昼、夜と足を運んでも鉄の扉のインターホンには応答がありません。郵便受けを見に行くと、三日分の新聞が溜まっていました。孤独死?という忌まわしい言葉が浮かびましたが、まさかそれだけで大騒ぎする訳にも行きません。旅行かも知れないし、入院かも知れません。そもそも一人暮らしと決まった訳でもないだろうと思ったとたんに、だったら平日に三日間、誰もいないのは不自然ではないかという疑問が浮かびます。

 困った私は二種類の文書を作りました。

『敬老祝い金をお預かりしています。再三お訪ねしましがお留守でした。下記にお電話下さい。お届けに上がります』

 これは留守の部屋の郵便受けに入れました。

 それ以外の部屋の郵便受けには次のような文書を入れました。

『以前調査にお答え頂いた方の敬老祝い金をお預かりしていますが、手違いで部屋番号がわからず困っています。個人情報の関係でお名前は伏せますが、該当する方は改めて下記に氏名と部屋番号を書いて私の郵便受けにお入れ下さい』

ところが、いったいどうなっているのでしょう。一週間が過ぎても誰からも返事がありません。お目出度い二つののし袋を前に、私は自分が住んでいる近代的なマンションのことを気味悪く感じ始めました。

 私を含めて、ここに住む人々には顔がありません。互いに連絡を取り合う必要も手段もない住人を収容して高々とそびえ立つ堅牢なコンクリートの箱…。上下左右の壁を隔てて全く知らない人間たちが物を食べ、風呂に入り、愛し合い、言い争っているというのに、暮らしの物音はありません。隣りで虐待が起きていても、餓死していても、首を吊っていても、気が付きもしないでビールを飲んでいられる状況を「快適」と考える人たちが、名前を伏せて生活しているのです。

 ここで年を取って行くことが急に恐ろしくなりました。仕事を退いたとたんに地域には親しく口を利く人間関係はありません。テレビを観ても、映画を観ても、芝居を観ても一人なのです。カルチャーセンターやボランティアのグループが都市部において活発な理由が解ったような気がしました。小さな居酒屋が常連客で賑わう理由が解ったような気がしました。教養を高めたり、困った人を助けたり、アルコールを楽しんだりすること以上に、人は心の通う他人との関係を求めているのではないでしょうか。地域の共同作業というもののない都会では、わざわざ何らかの活動に参加しなければ、他人と知り合う機会はないのです。マンションも共有スペースの清掃や庭木の手入れを管理会社に委託せず、休日に住人が共同で行えば、知らない人と言葉を交わすチャンスも生まれることでしょう。清掃の後にエントランスで円陣を組んで慰労会でもすれば、隣人が同県人であることが分かるかも知れません。田舎ではお祭りや神社の清掃や廃品回収を通じて住民同志がつながっています。逆に言えば、住民同志がつながっているから、その種の共同作業が維持されているのです。

( 地域再生の鍵はスローガンではなくて共同作業だな!)

 そうは思ってみるものの、田舎の煩わしさから逃れてコンクリートの箱に移り住んだはずの私が抱くこの種の感慨は、地域再生の重要性についての自覚であるのか、それとも初老期に突入した人間が抱く孤独感の変形であるのか、実は私自身にも判然としないのです。

 あ、そうそう、ここまで書き終えた時、孤独死をしてはいないかと心配した例の住人からひどく明るい声で電話があって、

「いやぁ、息子の招待で一週間ばかり夫婦で北海道に旅行していまして、組長さんには大変ご迷惑をかけました」

 無事、敬老祝い金をお渡しできたことを申し添えます。