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衛生上の問題
平成23年11月02日(水)
高知県の山奥の講演会場に出かけるために、岡山に前泊しました。
昨今は気象が荒れています。
ゲリラ豪雨や強風で飛行機が飛ばない事態を心配して、往きだけは鉄道を使うことにしたのです。
主催者予約のホテルは高級感に溢れていました。部屋に案内してくれた若いホテルマンが三種類の新聞を示して、
「明日はどの新聞をお届けしておきましょう?」
と制服の胸を張りました。
一流ホテルは新聞も選べるのです。
「朝一番の特急列車に乗りますから新聞は要りませんが、朝食は何時からですか?」
「洋食バイキングは六時半で、和食は七時からになっています」
「七時七分の特急に乗るんですが、プラットホームまでの移動を考えると、洋食でもちょっと難しいですよね」
「ごゆっくり食べて頂く余裕はなさそうですね」
「パンだけ頂いて列車で食べる方が無難かな…」
こんなやり取りを交わした翌朝です。
目覚ましで五時に起きてシャワーを使い、六時過ぎにフロントでチェックアウトを済ませながら、
「あの、時間がないので、朝食のパンを二つばかり列車で食べたいのですが、適当な袋を一つ頂けませんか?」
何の疑問も抱かずにそう申し出た私に、若いフロントマンの返事は思いがけないものでした。
「誠に申し訳ありませんが、衛生上、食品のお持ち出しはできないことになっておりますので…」
「え?パンですよ、パン。乾いたパンを二つばかり列車の中で食べようと思うのです」
「いえ、あいにく衛生上それはできない決まりになっています。大変申し訳ありません」
たかがパン二つ、ああそうですかと引き下がってしまえば年齢に相応しい対応だったのでしょう。しかし既に私の関心はパンそのものではありませんでした。パンを持ち出すことが衛生上、問題であるというホテル側の理由を知りたくてたまらないのです。困った癖ですね。
「七時七分発の特急ですので、三十分程度で食べることになるのですが、それでもダメですか?」
「一応、衛生上、お持ち出しについてはお断りしています」
「衛生上って、つまり、腐るってことでしょう?ここのパンは三十分程度で腐る食材を使っているのですか?」
「いえ、私どものパンに限って決してそのようなことは…」
「三十分じゃ腐りませんよね?」
「あ…はい」
「だったら問題ないじゃないですか。朝食代金だって支払ってあるんですから」
自分の矛盾を持て余した若いフロントマンは上司に助けを求めました。
上司はフロントの隅で私たちのやり取りを聞いていたのでしょう。部下の隣りにやって来ると、コンピュータの端末を叩き、
「君、朝食代をお返しして差し上げて…」
私の顔を見ないで若いフロントマンに命じました。
それは気に入らない客を追い払う夫が、
「おい、お客様がお帰りだぞ」
と妻に言う、映画のシーンに似ていました。
「いえ、代金なんて返していらないですよ、私が支払った訳じゃないですし…。私はただ朝食をとる時間がないので、パンを二つばかり入れる袋を頂きたいだけなのです」
(おい、朝っぱらからクレーマー対応かよ)
カウンター越しに立つスーツ姿の男たちの表情に、そんな感情が読み取れました。
「もういいですよ。コンビニで買いますから…だけど…」
衛生上問題のあるパンだなんて、びっくりしましたと、怒ったタコに変身した私は、ほんの少し墨を吐いて駅に向かいましたが、はらわたは煮えくり返っていました。
袋など申し出ずに、朝食会場から直接パンをカバンに入れて持ち帰れば何の問題もなかったに違いありません。そう思うとますます腹が立ちました。二人がかりであんなにかたくなに私の申し出を断って、彼らが守ろうとしたものは、いったい何だったのでしょうか。腐らないけど、持ち出せば衛生上問題があるというパンは、今頃バイキングのテーブルに山積みにされて、客が引ける十時までは外気にさらされ続けていることでしょう。これが旅館なら、おにぎりをこしらえて持たせてくれたのではないでしょうか。
「明日はどの新聞をお届けしましょうか?」
客に新聞の種類まで選ばせるきめの細かいサービスと、
「朝食代をお返しして差し上げて…」
という何とも失礼な対応が、同じホテルの経営方針の下で行われているということが理解できませんでした。
残念ながら駅の売店にはパンはなく、期待した「南風」というジーゼル特急には車内販売サービスはなく、高知のホームの売店でようやく手に入れた「龍馬弁当」に満腹したら、今度は主催者が用意して下さった昼食が食べられず、朝からボタンの掛け違いの連続のような一日でした。
お年寄りばかりの会場にもかかわらず、講演が盛況だったことだけが救いでした。
会場から松山空港までの二時間を運んでくれるタクシーの運転手にホテルの一件を話すと、
「そりゃあ、ゴネて、カネ取ろうゆう客じゃ思われたんかも知れませんのう…。私ら、料金返すんは最終処理と呼んじょります」
そう言った後で、
「いえ、お客さんがそう見えるちゅう意味やのうて、そんな風に考えてしまう時代ゆうことです」
悲しい時代ですのうと、慌てて取り繕いました。
終