イワシの頭

平成23年11月26日(土)

 イメージトレーニングの話を聞きました。スポーツの分野でのことでしたが、いい成績を出すためには自信を持って試合に望むことが大切であるという内容でした。うまく行きそう・・・というイメージが脳に生まれると、脳はそれを実現するために自分でも驚くような働きをするというのです。しかし、うまく行きそう・・・と思おうとしても、そう簡単に思えるものではありません。そこで指導者が必要になるのですね。練習するアスリートに寄り添いながら、折に触れてどんなふうにイメージしたらいいのかを指導者がアドバイスするのです。やがてイメージの仕方そのものを身につけた選手は、指導者がいなくても、うまく行きそう・・・という気持ちを抱くことができるようになります。プラス思考という言葉がありますが、それを感情レベルまで高める訓練がイメージトレーニングなのです。もちろん、できる限りの練習をしての話ですよ。うまく行きそう・・・と思いさえすれば、なまけていても成功するなどという魔法のおまじないではありません。実力を超える力が出るというよりは、実力の発揮を妨げている紙一枚のような心理的マイナス要素を払拭する方法と考えた方がよさそうです。

 オリンピックの棒高跳びでは優勝候補と目されている選手が何度跳んでも失敗する様子を見ることがあります。他の競技と違って、連続して何度か跳んで最も良い記録を競うルールですから、長い棒を担いで次第に速度を上げてゆく選手の真剣な表情が、失敗する度に険しくなってゆくのがわかります。オリンピックのメダル候補です。イメージトレーニングなどすっかりマスターしているに違いないのですが、選手の脳では、今度はうまく行く・・・と信じる思いと、また失敗するのではないか・・・という不安とがめまぐるしく戦っているのでしょうね。そして、そんなふうに心が乱れていること自体が実力の発揮を妨げてしまうのです。そもそも世の中は思い通りにならないものですが、私たちは、実は、ものを思うことさえ自由にはならない存在なのですね。効果的に「思う」ためには訓練が必要なのです。そう言えば一流のスポーツ選手は、惨敗した試合のインタビューに対しても前向きな答えをします。「予想した成績は出せませんでしたが、改善すべき自分の欠点が見えたことは収穫でした。しっかり補強すれば次回はご期待に応える結果が出せると思います。そういう意味では大変いい試合だったと思います」あれは声に出して、くじけそうな脳にプラスのイメージを言い聞かせているのですね。

 脳には、自ら描いたイメージを実現しようとする性質があるのだとしたら、うまく行かないような気がする・・・と考える傾向のある人は気をつけなくてはなりません。試験に落ちたらどうしよう・・・きっとお客さんに嫌われている・・・これ以上老けるのは嫌だ・・・自覚症状のない病気が進行しているのではないだろうか・・・。脳が常にそんなイメージを描いていれば、それが実現する可能性は増加します。そこで手っ取り早いイメージトレーニングの一つとして、ジンクスや神頼みやお守りが登場するのです。伸びたヒゲに何の力もありませんが、勝つまでは剃らないと決めたサッカー選手が、鏡に顔を映す度にきっと勝つというイメージが強化されれば、脳はそれを実現すべく最大の努力を惜しみません。お茶を断つことに試験を合格させる力などありませんが、受験生が飲みたいお茶を我慢する度にきっと合格するというイメージが強化されれば、脳は記憶した知識を総動員して正しい答を導き出します。茶柱が立つことに商談をまとめる力などありませんが、お、縁起がいいぞ、と思うことによって、きっとうまく行くというイメージが強化されれば、説得力ある言葉が交渉を有利に運ぶのです。イワシノ頭も信心からという言葉が、どちらかと言えば信心の愚かさを笑うような使われ方をしますが、こうして考えて来ると、意味のないこととは言い切れなくなります。二人が結ばれますように、という願い事を絵馬に書いて神前に手を合わせるとき、破局を思い描く人はありません。きっと新郎新婦として祝福を受けている姿か、新居で仲良く食事をするシーンをイメージしていることでしょう。脳がそれを実現しようとするのだとしたら、手を合わせる対象がたとえイワシの頭であっても、信心は科学の領域で機能していると言っていいでしょう。係長になれますように。お店が繁盛しますように。病気が治りますように・・・。そびえ立つような立派な神社から、横町のお稲荷さま、道端のお地蔵さまからフロントガラスのお守り袋に至るまで、「思う」ということさえ自由にならない人間たちが工夫したイメージコントロールの装置であると考えると、何が祭られているかはもはや問題ではなくなって、ただ尊いということだけで足りるのです。初詣の善男善女に、あなたがいま手を合わせた神様の名前を知っていますかと尋ねても、さあ・・・と首を傾げて疑問を抱かないおおらかさには、どうやら信仰とは質の異なる脳科学に属する知恵が隠されているようです。