特派員報告5
JHO・DAIGIN

平成23年12月24日(土)

 この国では新年を迎えたお祝いに「お節(おせち)」という料理を食べる風習があります。かつての日本では、年が改まって三か日は八百屋も肉屋も魚屋も食堂も店を閉ざしましたから、暮のうちに比較的保存のきく料理を作っておく必要があったのですが、せめて新年の三日間は作り置きの料理を食べて、家事労働から主婦を解放してやろうという目的もありました。

 一年の始まりに食べる料理はおめでたいものにしたいという気分が形式化して、お節料理にはもっぱら縁起ものが並ぶようになりました。稲の実りを願って「田作り」、子孫繁栄を願って「数の子」、一年を健康に過ごすように「黒まめ」、喜び多い年になるように「昆布じめ」、腰が曲がるほどの長生きを願って「海老料理」、これにおめでたいものの象徴として「鯛の塩焼」、そして金持ち物持ちにあやかって「餅」を食べるのがオーソドックスです。今では元日から店は開き、主婦は解放される必要がないほど家事労働は電化されていますから、お節の存在意義はよほど薄れてしまいましたが、縁起かつぎの目的だけが肥大化して、デパートには今年もワンセット何万円もするいろどりも鮮やかなお節重ねが売り出されました。

 同音異句の多い日本語という言語の特徴でしょうか、お節に限らず、縁起言葉も忌み言葉も、平たく言えば駄洒落で成立しているようです。

 金持ちになりたいものだと庭に「モチ」の木を植え、お金を借りないですむようにと「カリン」の木を植え,人にカネを貸すほどの者になるぞとばかり「カシ」の木を植え、難を転ずるために「ナンテン」を植え、地方によっては一番になることを願って玄関先に「イチイ」の木を植えます。

 反対に死に通じる「四」と、苦に通じる「九」を嫌い、披露宴ではウェディングケーキを切ると言わないで「入刀」と言い、樽酒の蓋は割らないで「開き」ます。同様に式典は終わるのではなく「お開き」になるのです。

 ことほどさように駄洒落が生活にしみ込んでいるこの国に、最近変化が起きているようです。若者が駄洒落という言葉遊びを好まなくなっているのです。それどころか、この国の成長を担った団塊の世代たちが駄洒落を言うと、あからさまに軽蔑するようになりました。「う…寒ぅ!」とか、「はいはいはい」とかあしらわれて、団塊のおじさまたちは元気がありません。しかし駄洒落はギャクとは違います。ギャクは単に滑稽なフレーズや仕草を定型的に使用して笑いを取る手段であるのに対し、駄洒落は刻々と変化する日常会話の主題を機敏に察知するや、同音異句というツールを用いて瞬時に気の利いた反応をして見せる技術です。

「おれ、思い切ってさ、新車買う契約済ませて来たんだよ」

「そりゃ、来るまで(クルマで)楽しみだな」

「中国の軍隊、目的は国防だけかなあ」

「征服(制服)じゃねえか?」

「最近の韓国ってどう思う?」

「挑戦(朝鮮)的だよね」

 こういう駄洒落は、寒ぅ!と片付けるには高度なセンスを要します。脳の中に高スピードで同音異句を検索するエンジンが搭載されていなければなりません。

 混沌の中から共通項を抽出することが本質に至る方法論だとすれば、駄洒落という言葉遊びで日常的にこの種の能力を鍛えることには何やら大切な意味がありそうです。それを否定する風潮の中で、この国の若者の言語能力や発想力が衰退してゆくような危惧を抱くのは、異なる文化圏に身を置く者の取り越し苦労かも知れません。