創作落語「遺伝子」

平成23年05月08日(日)

 私、高山市に住んでいたことがありますが、城山公園のふもとに福来博士記念館という古ぼけた建物があるんですね。看板は雨と日光にさらされて色あせています。小さな木造平屋建ての入り口には青いスリッパが並んでいて、人が入っているのを見たことがありません。何の記念館なのかなあ…と気になっていましたが、入場券を売る窓口もないのです。隣りにある、これまた古びた純和風の喫茶店に入ってコーヒーを頼むついでに、私、マスターに聞いてみたんですよ。

「隣の建物って、何の記念館ですか?」

「あ、ご覧になりますか?いえ、私が管理を任されているんでね、ここでコーヒー飲んで頂いた方には自由に入って頂いています」

「それじゃ、いいんですね」

 と初めてその建物に入ったのが冬でした。

 寒さで堅くなったスリッパを履いて中に入ると、私ひとりっきりです。記念館といっても、展示物は、周囲の壁にずらりと貼ってある古い白黒写真だけなんですね。冬に、誰もいない空間で見る古びた白黒写真というのは、それだけで気味の悪いものですよ。しかも写っているのが奇妙なものばかりなんです。当時の技術では絶対に写せるはずのない月の裏側の写真、荒れ果てたお墓の写真、弘法大師が書いたという書の掛け軸の写真。それも写真の一部分はゆがんだり欠けたりしているんです。ところどころに手書きの説明書きが貼ってあります。それを読んで、私、はっとしました。壁の写真は全て念写の写真なんですね。あ、念写はご存知ですか?密閉された箱の中に感光紙、つまりフィルムを入れて、外から念力の強い人が、こう…何かを強く思うんですね。すると、思い描いたものがフィルムに写る。その写った写真が展示してあるのです。いや、私がはっとしたのは、写真が念写であるということよりも、説明書きにある念写の主の名前に記憶があったからです。

 高橋貞子と三船千鶴子…。

 そうだったのか!と思いました。

 二人は山村貞子、山村志津子と名前を変えてはいるものの、人間の念力をテーマにした「リング」という小説の登場人物です。作者はこの記念館にやって来て、小説の着想を得たのですね。私、以前その小説を読んで、怖くて怖くて、怖いから途中で止められなくて、一気に読み終えたら、心に恐怖が棲みついてしまったみたいで、書棚にしまった「リング」という文庫本の背表紙が目に入るだけでぞ~っと恐怖が蘇るものですから、思い切ってその本を捨ててしまったことがあるんです。小説は捨てましたが、ストーリーは鮮明に覚えています。

 伊豆大島に小さな石像があったのですね。奈良時代に時の権力の怒りに触れて伊豆に流された、役小角(えんのおづぬ)という修験道の開祖、つまり、呪術を行う超能力者を祭ったものなのですが、終戦後、日本人の神道につながるような精神性を否定するGHQによって海中に捨てられてしまうのです。小角の石像にはしかし、小角の超能力が宿っているのでしょうね、島に住む山村志津子という当時二十一歳の女性がある日突然不思議な声を聞くのです。

「私を海から引き上げろ、引き上げるのだ」

 満月の夜、志津子は物に憑かれたように同級生の漁師に訳を言って小船を出させます。月明かりがあるとはいえ、夜の海で二十年前に捨てられた石像を探すなど不可能だと同級生は反対しましたが、志津子の剣幕に押されて船を出すと、ロープ一本を手に夜の海に飛び込んだ志津子は、やがて石像を結わえ付けて上がって来るのです。それ以来、志津子には不思議な予知能力が備わって、同級生の姉の死を予言したりする一方で、原因不明の頭痛が始まるのです。

 医者から医者をたどっても志津子の頭痛は改善せず、とうとう上京して伊熊平八郎という精神科医を受診するのですが、催眠状態における人間の精神を研究していた伊熊は、志津子の診察を行ううちに、その超能力に関心を持ち、東京に志津子を住まわせて研究するのですね。透視の実験に成功するのもその頃です。やがて研究に夢中になるうちに、二人の関係は医者と患者の立場を超えてしまい、志津子は妊娠します。伊熊には妻子がありますから、志津子は伊豆大島で未婚の母になるのですが、その時出産した子が山村貞子なんですね。1947年、志津子は二十二歳です…ということは志津子は昭和元年生まれなんですね、分かり易い設定です。

 世間をはばかって、生まれたばかりの貞子を祖母に預けて上京した志津子は、1950年、三歳の貞子を引き取ります。ちなみにこれは私の生まれた年ですから、貞子は私より三つお姉さんなんです、何だか身近に感じますね。伊熊の研究は続き、志津子の透視の実験は次々と成功します。それが新聞に大きく取り上げられて、二人は一躍、時の人になったのですが、マスコミは次第に実験は手品ではないかと疑い始めるのですね。その頃から伊熊にも志津子にも不幸の影が差し始めます。

 1954年に志津子は男児を出産しますが、新生児は生後四ヶ月で病死します。貞子は七歳です。1955年、名誉回復を期した伊熊は、嫌がる志津子を無理やり百人の報道人の前に立たせて透視の実験をしますが失敗します。

「失敗を願うたくさんの報道人の念が悪い影響を与えたのだ」

 とマスコミを批判した伊熊は学会から完全に失脚します。

 失脚した伊熊は妻と離婚をして、自ら超能力を身につけようと修験道に身を投じますが、無理が祟って肺結核になり、箱根の療養所に入院します。

 一方1956年、別人のようにやつれた志津子は、9歳の貞子を連れて伊豆大島に帰り、来る日も来る日も海を見つめて意味不明なことをつぶやいていましたが、三原山の火口に身を投げて自殺してしまいます。志津子31歳、貞子は10歳の出来事です。小学校四年生の貞子は、その年に、翌年の三原山の噴火を予知しています。志津子と伊熊の子共である貞子は、母親以上に念力が強かったのです。

 18歳で上京した貞子は「飛翔」という劇団に入団します。自分の超能力に気付いていましたが、他人に知られてはいけないと志津子から厳しく言われていた貞子は、自分の能力をひた隠しにしています。あるとき誰もいないはずの稽古場を劇団員が覗くと、貞子が一人でテレビを見ています。ところが貞子が見ているテレビは電源が入っていないのです。透視も念写も超えて、貞子の超能力はテレビに映るほどの力があるんですね。貞子の秘密を知った劇団員は、それを団長に話し、団長はそれをネタに貞子に関係を迫りますが、心臓発作で頓死します。それも貞子の念の力だったのかどうか…。それ以来、貞子は、誰言うともなく、魔女だ、化け物だと気味悪がられて、劇団から姿を消してしまいます。そして箱根の療養所の父親に会いに行くんです。

 同じ頃、絶滅したはずの天然痘ウィルスに感染して、日本最後の天然痘患者となった療養所の勤務医の長尾城太郎は、父親の見舞いに来ていた山村貞子を見たとたん、抗しがたい欲情に駆られるんですね。絶滅寸前の天然痘ウィルスが、長尾を通じて貞子の体内に入り、念の力で増殖したがっているんです。目的を果たした長尾は、組み敷いた貞子が発する恐ろしいほどの呪いを感じるんですね。殺してやる、殺してやる…。長尾は恐ろしさのあまり、狂ったように貞子の頭を割って井戸に突き落とし、次々と石を投げ込みます。貞子19歳の出来事でした。

 貞子はそれから随分長い間、人間を呪いながら、冷たい井戸の底で生きています。死に瀕した貞子の耳に予言めいた言葉が聞こえます。

「体はなあしぃ、しょーもんばかりしとると、ぼーこんがくるぞ。ええか、たびんもんには気ぃつけろ。だーせん、よごらをあげる。あまっこじゃ。おーばーの言うこときいとけ。じのもんでがまぁないがよ」

(その後、体の具合はどうだい?水遊びばっかりしてると、化け物がやって来るぞ。いいか、よそ者には気をつけろ。お前は来年子供を産むのだ。娘っこだから、お婆の言うことはよく聞いておけ。土地の者でかまうことはないじゃないか)

 貞子は井戸の底で死にますが、殺してやる…という念の力は、増殖したい…という天然痘ウィルスの意志とひとつになって井戸の底から立ち上ります。

 年月が経ち、井戸には蓋がされて、その上にペンションが建ちました。

 大阪から泊りに来た一組の家族があるんですね。小学生がビデオテープを持ち込んで、いつも見る番組を録画したんですが、持ち帰るのを忘れてしまいます。別の日、同じ部屋に東京から泊りに来た六人の若者の一人がそのテープを見つけるんです。退屈だから見てみようよ、とテープを再生すると、思い出して下さい、貞子には透視よりも念写よりも強い、想念をブラウン管に映すほどの能力がありましたよね、井戸から立ちのぼって人間を呪う貞子の念が不気味な映像になって映っているのです。我々は一定のストレスが加わると胃潰瘍になります。心と体は直結しているんです。映像を通じて体内に貞子の呪いを取り込んだ若者たちは、胃潰瘍どころか、心臓の冠動脈にプツッと腫瘍が発生し、腫瘍はどんどん増殖して、ビデオを観てからちょうど一週間後に一斉に断末魔の様相で悶絶して死ぬのです。しかし、増殖したいという天然痘ウィルスの意志に手を貸した者だけは死を免れるんです。つまり、テープをダビングして他人に見せた人間は、殺してやる…という貞子の呪いに手を貸した側の人間として生きて行き、増殖に手を貸さなかった人間は貞子の呪いどおり死ぬという形で、貞子の怨念は増えて行くのです。

 ま、記憶は多少不正確かも知れませんが、整理すればこんな内容です。

 高山の福来博士記念館から、よくもこれだけ話しをふくらませたものだと思いませんか?しかし、こうして整理してみて改めて怖いのは、人が超能力を持つのではなくて、超能力が人を操るという設定になっているところなんですよね。役小角の「意志」が志津子を操って伊熊と出会うことによって貞子が生まれます。絶滅したくないという天然痘ウィルスの「意志」が長尾を操って、貞子の体内に侵入します。やがて、強力な貞子の呪いとウィルスの意志がひとつになって増殖してゆく。増殖の手段も、死にたくないという人間の恐怖を刺激して、ビデオテープをダビングさせるという方法を用いるのです。

 そういう見方をすれば、この話も私がしているのではなく、貞子が私にさせているのかも知れません。書店で一冊の本を手に取ったときも、あなたがその本を選んだように見えて、実は本の方があなたを選んでいるとも言えるのです。そして、本は作家が書いたのではなく、作家がその作品に書かされている…。その発想の転換が怖いのです…と、ここまでが枕です。長い枕でした。

 さて、その「リング」が映画になりました。もちろん映画はレンタルビデオになりました。それを娘のゆう子が借りて観て、居間に置きっばなしにして出かけてしまいました。その夜のことです。

「おとう、おねえが借りたビデオ、観ない?」

 息子の順平に言われましたが、私、知ってるでしょ?リング。リングという言葉だけでも怖くて、文庫本を捨てたんですからね。しかし、そんな顔はできません。父親ですからね。

「なんだ、リングじゃないか、怖い映画だぞ、お前、夜中にこんなの観て、大丈夫か?」

「大丈夫だよ、おとうは大丈夫?」

「バカ、大人だぞ、怖いわけがないだろ」

 と、観始めたのが夜中の九時半。よくできた映画でした…ということはつまり、怖い訳です。例のペンションに泊まった若者六人が一緒に写った写真なんか、こう…顔が歪んでるんですねえ…ただ歪んでるだけのことなんですよ。だけど、ほら、福来博士記念館の念写も歪んでいたでしょ?思い出すんですよ。すると怖いんですよ。また音楽がね、ドーンとかギーッとか、不気味な低音で怖さをかきたてるんですね。最後なんかあなた、白黒の不鮮明な映像の、遠くにポツンと例の古井戸が映るんですよ。そこから人間の手が二本出る。黒い頭部が覗く。白い服を着た貞子が上半身を乗り出す。腰まである長い髪の毛が全部前に垂れていますから顔は全く見えません。それが這って井戸から出て来るんですよ。やがて立ち上がって歩き始めるんですが、その恰好がね、白いワンピースで、なぜかいかり肩で、両腕は少し前にだらりと下げて、髪の毛は全部前に垂らして、歩き方はぎこちなく…最後はあなた、貞子の手がブラウン管から出て、髪の毛に隠れた顔が、ぬうっと外へ出て来るんですよ。もう、怖くて怖くて怖くてね。でも父親はそんな顔はできません。

「まあまあ面白かったじゃないか」

 なんて余裕の顔で言いましてね、でもこのままでは夜中にトイレに来られませんからね、順平が居間にいる間に済ませて、

「さて、明日も仕事だから先に寝るぞ」

 と二階に上がったのが11時近かったでしょうか。ふと見ると娘のゆう子の部屋のドアが開いてるんですよ。

(年頃の娘が開けっ放しかよ、困ったもんだ)

 と閉めてやろうとしたドアの横の壁に、ウィグって言うんですか、長い髪のカツラが掛けてあったんです。

 心臓って口から出ますね。

 腰って抜けますね。

 そういう時って声が出ませんね。

 そのくせ目はカツラを見つめたまま動きませんね。

 やがてカツラだということが分かると、今度は怒りが湧いて来るんです。

 何で俺ばっかりこんな目に遭うんだ!そもそもあいつがあんなビデオなんか借りて来たからこんなことになったんだ。その上こんなところにカツラなんか掛けやがって!

 そうだ!私はカツラを持って順平の部屋に行きました。ベッドの布団をめくり、カツラを置き、元通りに布団を掛けて自分の部屋で横になりました…が、眠れませんね、楽しみで。壁に掛けてあるカツラであれだけ驚いたんですよ。それが布団をめくったところにあるんです。やがて順平が階段を上がる音がしました。いよいよです。ところがどれだけ待っても驚く気配がないんですね。時計を見ると11時半を過ぎています。突然不吉な予感がしました。大人の私が腰が抜けたのです。高校生の息子はびっくり死にするかも知れません。新聞のタイトルが浮かびました。『貞子の怨念か!息子、ベッドのカツラでショック死。父親、不用意ないたずらを後悔』心配になった私が息子を見に行こうと自分の部屋のドアを開けたときです。そこにカツラが仕掛けてあったのです。ギャア!今度は声が出ました。息子が部屋から笑いながら出てきて、

「おとう、びっくりしたよ」

 びっくりしたら声が出なかったそうです。腰が抜けた状態で、目はベッドの上のカツラから離れなかったそうです。やがて怒りが湧いて来たんですね。何でカツラがこんなところにあるんだろう…。犯人はあいつしかいない!このまま声を出さないでいれば、きっと心配して見に来るに違いない。よし!仕掛けておいてやろう。

 考えてみれば、同じ遺伝子が真夜中に闘っている訳です。

 貞子がくれた忘れられない思い出でした。