創作落語「心のケア」

平成23年05月08日(日)

 これは何かで知り合ったオーストラリア人の女性から聞いて、なるほどと思った話しなのですが、まあ、仮に彼女の名前をキャサリンと致しましょう。キャサリンは東京で英会話教室の先生をやっていて、日本語が話せます。あるとき、同じ先生仲間の陽子という若い日本人と喫茶店で待ち合わせをしたんですが、途中で偶然出会った恋人のボブを陽子に紹介して、三人でお茶を飲んだのですね。そしてボブを先に帰して陽子と二人きりになったときのことです。

「彼、何だか機嫌が悪かったわね」

 陽子が心配そうにそう言うんです。だけどキャサリンは思い当たりません。

「別にいつもと変わらなかったと思うけど、どうして?」

「ならいいんだけど、何となく」

 とまあ、その場はそれて終わったんですが、キャサリンは気になって気になって、その晩、ボブに電話したんですね、あなた何か怒ってた?って。そうしたら今度はボブの方が驚いて、どうして分かったのかと言うんです。前にデートしたときのキャサリンの言葉がどうにもひっかかって気持ちが晴れなかったけれど、喫茶店では絶対にそれを態度に表さないで、明るく振る舞っていたはずだと言うんですね。実は指摘したのは陽子だったと聞いて、ボブはもう一度びっくりするんです。いいですか?初対面ですよ。恋人のキャサリンが気がつかないボブの密かな感情を、初対面の陽子が気がついていたのです。

 他人の感情に大変敏感であるというのが、日本人に対するボブとキャサリンの感想でした。

 こういうことは外国の人から聞くと返ってよく分かるものですね。

 キャサリンはこんな話しもしてくれました。

 日本に住んでもう八年ほどになるのですが、盆、正月に大移動をする我々日本人と違って、クリスチャンたちはクリスマスに必ず家に帰るんですってね。で、いつだったか、向こうで日本料理をこしらえて家族に食べさせたところ、こんなまずいものは二度と作るなと言われて、ひどく傷ついたと言うんです。でも昔はこんなことでは傷つかなかったんですね。まずいと言われたら、この味が分からないなんて可哀想だわ…て、それで平気だったのに、キャサリンはそのとき、うちの家族は何と刺々しいんだろうと思った。つまり長く日本に住んだ影響で、人の感情に敏感になったのではないかと言うのです。

 そういえば外国映画って、会話が刺々しいですよ。「誰にでも一つは欠点がある。だがお前の場合は複数だ」とか、「私を五分待たせれば1000ドルの損失だ。君の給料から引いておこう」とかね。

 考えてみれば、欧米のように肉食系の、動物に例えるとライオンや豹たちの文化と、日本のように草食系の、動物に例えるとウサギや鹿たちの文化とでは本質的な違いがあるのかも知れません。同じ集団でも、役割分担のあるオオカミや猿の集団と違って、ただ群れて暮らすウサギや鹿や鳩や鰯の集団には、リーダーというものがないんですってね。神経質な一匹が何かに怯えると、その怯えを全員が察知して同じ方向にサアッと逃げる。つまり周囲の感情に対する鋭敏な察知能力は、集団が全体として同じ方向を向くためには必要な能力なのです。しかし人間は組織を作ります。単なる集団と違って組織には目的があります。目的を達成するための役割分担があります。命令系統があります。人事評価があります。評価によって給料に差もできます。他人の感情に敏感な国民が組織として緊急事態に遭遇すると…

「塚原さん、見ましたか、今のニュース。とうとう堤防が決壊しましたよ。これは相当の被害が出ます」

「山が崩れて、たくさんの流木が川をせき止めたでしょ。あれが致命傷でしたね」

「山は杉や桧ばかりですからね。樹木というものは広げた枝の範囲に根を張るものです。杉や桧の根は小さくて集中豪雨には弱い。戦後は雑木を切り倒して日本中の山を杉と桧で埋め尽くすのが国策でした。大きな声では言えませんが、山が保水力を失ったのも人災、花粉症も人災です」

「それだけじゃありませんよ、課長。実のなる木が減って、ケモノがふもとの畑を荒らすようになったのも人災です」

「なるほどね。しかし、堤防が決壊したとなると被害が出ます。課として準備すべきことはしておいた方がいいですね」

「うちは…と、精神保健の係がありますから、準備するとすれば被災者の心のケアでしょうな」

「週が明ければ議会です。必ず災害対策について質問がありますから、既に体制はできていますと答えたいですからね」

 という訳で、県庁の保健医療課の塚原課長補佐に呼ばれた鈴木係長は、

「心のケアですか?」

「そうだよ、精神保健係として一応体制だけ整えておくようにと課長がそうおっしゃるんだ。昨今は災害があっても心のケア、事件が起きても心のケアだからね」

「つまり臨床心理士の手配ですね」

「いや、臨床心理士だけじゃなくて、精神科医と保健師も加えたチームが編成できれば理想的だ。お年寄りの多い地域だから、床上浸水で避難所生活ともなれば、不眠が続いて持病を悪化させる事態も予想される。応急に安定剤や睡眠薬や血圧降下剤の投与ができて、保健指導やカウンセリングを受けられる体制にしなくてはならない。ローテーションを組んで、そうだな、ま、当面、二週間程度の派遣体制があればいいだろう」

「わかりました。近隣の医療機関や保健センターを当たって人材を確保します」

 同じ頃、秘書課では、堤防決壊のニュースを見た知事の秘書が、大声で防災課に電話をしています。

「…そう、ヘリですよ、防災ヘリ。被災地の上空を旋回して戻るだけでいいのです。だからヘリポートは使わないって言ってるでしょう。知事は地上には降りません。はい、すぐに手配を頼みますよ」

 と乱暴に受話器を置いて、

「ったく、連中は政治というものが分かっていない。この場合、いち早く知事が上空から視察することに意味があるんだ。空から見たところで詳しい被災状況など分からないが、旋回するヘリの姿と、防災服を着た知事の力強い記者会見が報道されることが重要なんだよ。週明けの議会は恐らく災害対策についての質問に終始する。知事がヘリで視察したかしないかでは展開が違うからね」

一方、被災地一円を選挙母体にしている県会議員も張り切っていました。

「知事がヘリで行くとなれば、地元の議員がぼんやりしてはいられないだろう。ジープで被災地へ入って、途方に暮れる住民を激励する。その写真を広報紙に載せるんだ。ピンチはチャンスだよ、君。議会?質問はもう決まっている。心のケアだよ、心のケア。道路の復旧だの家屋の修復だのというありきたりな質問はしない。不安、不眠で雨の音に怯える子供たちやお年寄りに対する心のケアはどうなっているのかと問いただすんだ。どうだ、目の付けどころが違うだろ?台詞も考えてあるんだ。ヘリで視察したのでは、被災した住民の顔も心も見えないでしょう。そう言って知事をぐっとにらみつける私の写真は、議会だよりのトップを飾るに違いないぞ」

議員はそう言い残して出かけて行きましたが、もとより選挙民に自分の熱意を知らしめることが一番の目的ですから、報道機関に一報を入れ、関係者にも行くぞ、行くぞ、行くぞ…と、派手に連絡を致します。当然、話は塚原課長補佐の耳に入り、補佐はそれを課長の耳に入れますよね。

「そうですか、塚原さん。うるさい議員ですが、やることも早いですね。心のケアの体制を作っておいて正解でした。どうですか?いっそ先手を打って議員の鼻を明かしませんか」

「…と言いますと?」

「心のケアチームの発足を記者発表するのですよ。そうすれば議員は出鼻をくじかれる」

「だったら、課長、いっそ第一陣を派遣してはどうでしょう。県はただちに心のケアチームを編成し、既に第一陣を派遣したという記事が出れば、知事はきっとお喜びになりますよ」

「なるほど、さすがは塚原さん、いい考えです。それではその方向でひとつ手配をお願いしますよ」

「え?もう派遣するんですか?」

 課長補佐の指示が鈴木係長に理解できません。

「お、お言葉ですが課長補佐、心のケアに出向くのはもう少し日にちを置いた方がいいのではないでしょうか。現地はまだ雨が降っています。災害のまっただ中ですよ。通常心のケアは、災害が一段落して、失ったものの大きさに打ちひしがれた被災者が途方に暮れた段階で、必要になるものでしょう?」

「必要かどうかはこちらが判断することではなく、現地が決めることだ。明日は晴れるよ。一度現地の役場に電話してみたまえ」

「わかりました」

 その頃、役場は戦場のような騒ぎです。

「体育館は使えないのか?バカ、小中学校は浸水しているだろう。高校の体育館だよ、高校の。何?高校は県立の施設だから県の許可が要る?だったら早く県の担当課に電話しろ。え?した?校長を通じて話を上げろって?で、校長は?孫と避難して連絡が取れないのか!バカ野郎、こんなときに連絡の取れない校長も校長だが、こんなときに手続きだ、筋道だって言ってる県庁も県庁だ、何考えてんだ、まったく」

「あ、課長、課長、県から電話です」

「お、待ってたんだ、はい、住民課長です。高校の体育館を避難所に使わせてもらえるんですね?え?違う?いや、担当課にはもう電話しましたが、校長が…は?心のケアチームを派遣したい?

 あなたね、住民は今、畳を上げたり避難したり、災害の真っただ中なんですよ。役場の職員だって土嚢を積むために出払っています。こんなときに心のケアって、いったい何をするんですか?懸命に畳を上げている住民の脇に立って、眠れますか?なんて聞いたら、あなた、はり倒されますよ。そんな暇があったら土嚢を積む人足を派遣して下さいよ」

「も、申し訳ありません。おっしゃる通りです」

 勢いよく電話を切られた係長は、現場の状況を課長補佐に伝えますが、

「君は役場の誰に聞いたのかね?」

「住民課長ですよ」

「今度は直接、町長に聞いてみたまえ」

「町長って、課長補佐、人的被害を担当しているのは住民課ですよ」

「いや、こういう場合は最高意思決定機関である町長に聞くのが一番だよ。ぐずぐず言ってないで早く電話したまえ」

「あ、はい」

 命令では仕方ありません。

「直接の課長が要らないって言ってるんだ。町長に電話したって、電話はまた住民課に回されるだけだろうが、ったく無駄なことさせやがって」

 とぶつぶつつぶやきながら、係長は町長名指しで電話しましたが、町長は政治家なんですね、県からの支援の申し出を住民課長のようにあからさまには断りません。

「心のケアですか…それはまた行き届いたご配慮ですね、いえ、もちろん有難い申し出です。今は猫の手も借りたいほど、あ、いえ、県のことを猫の手だと申し上げたのではございませんよ。それほど忙しいという意味で申し上げたので、誤解のないようにお願いします。町長が、県の支援など猫の手のようなものだと言っていたなどと知事に伝われば、復興の助成金にもかかわりますからなあ。お申し出の件については喜んでお願いしますが、具体的な時期や方法は現場の職員と打ち合わせて下さい」

 コミュニケーションというものは、この辺りが難しいんですね。町長としては、時期や方法は現場の職員と打ち合わせて、というところが伝えたいことなんですが、聞く方は違います。

「課長補佐、町長は喜んで支援を受けるので、具体的なことは現場と打ち合わせるようにという返事でした」

「ほら、な?こういうときの決断は町長だろ?もう一度現場に電話してみろ」

「あ、はい」

 というやり取りをしているわずかな隙に、現場には町長から連絡が入っているのですね。

「あ〜、町長だがね」

「これは町長、住民課長の篠田でございます」

「実は、県から、心のケアチームを派遣したい旨の申し出があったので、具体的なことは現場と話しをするよう返事しておいた。電話があると思うので、よろしく頼むよ、住民課長」

「は、はい。承知致しました」

 と、ここでも、よろしくという言葉の意味を巡って、伝える側と聞く側の間で微妙な行き違いが生じています。

「課長、県の精神保健係の鈴木係長という方からお電話です」

「ああ、たった今、町長から聞いたばかりだ。代われ代われ。あ、はい、住民課長です。先ほどは大変失礼を申し上げました。はい、町長からもよろしく頼むと指示があったところです。はい。早速に行動計画を作りまして、ご連絡申し上げます」

「課長補佐、住民課長が行動計画を作成して連絡下さるそうです」

「そうか、それが届いたら記者発表だ。明日の朝刊に間に合うように原稿を書いておけよ」

 集中豪雨をもたらした雨雲が去ると、翌朝は嘘のような青空が広がりました。

 新聞各紙には被災地で心のケアに従事するチームの行動計画が掲載されましたが、鈴木係長以下第一陣は、早朝から新聞も読まないで被災地への道をひた走っています。

 一方、役場では新聞を読んだ職員が住民課長に詰め寄っていました。

「どうするんですか、課長。精神科医を中心としたチームが、心を病んだ三人のお年寄りの自宅を訪問する予定という記事を読んで、精神を病んだのは誰だろう、誰だろうって、町は大変なことになってますよ」

「狭い町です。こんなとき県の車で玄関横付けなんかされた日にゃ、あそこの年寄りは心を病んでるって、あっという間に噂が広がります」

「それは絶対困りますよ、課長。耕作さんちは孫娘が結婚を控えてるし、松江さんは老人クラブの前会長です。トミさんに至っては、役場の元保健師ですよ。それが三人とも心を病んでるなんて」

「そうですよ、課長。雨のさ中、三人に頼みに行った私たちの立場はどうなるんですか。心を病んでいる年寄りを適当にみつくろえって言われても、そんな人、簡単には見つからないし、こんなみっともないこと、おいそれとは頼めないし、仕方がないから、役場に協力的なあの三人に無理やりお願いしたんじゃないですか」

「耕作さんなんか小さい頃から注射が嫌いで、太い注射を打たれるんじゃないかって涙ぐむんですよ。だから私が残って二人で練習したんです。どうですか、眠れますか?って私が聞いて、雨の音を聞くと不安で眠れなくなりますって耕作さんが答える。ところが耕作さんたら、緊張すると、不安なので雨が降りますって、そう言うんですよ。そんな努力も、課長、こんな風に新聞に載ったんじゃ水の泡じゃありませんか」

「か、課長、心のケアチームの車が到着しました」

「よし、お前たち三人は、防災服脱いで会議室にいろ」

「会議室で何をするんですか?」

「訪問する予定だった三人のお年寄りたちは、心配した子供たちに引き取られて今朝早く都会へ行った。代わりに心を病んだ若い人三人に集まってもらったことにするんだ」

「それで、私たちはどうするればいいんですか?」

「どうですか?眠れますか?って言われたら、心のケアと聞くと不安で眠れなくなりますと言えばいい」