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床屋の太郎
平成23年06月03日(金)
職場の近くに感じのいい床屋を見つけて利用するようになりました。
老夫婦というにはまだ気の毒な年齢の二人が、仕事の実権は一人娘に譲って上手に裏方に回っています。背の高い素直な青年が二人、住み込みで修行しています。混んでいるときは三つの椅子の客を手際よく役割分担して、娘がカットをし終わると、洗髪は若者が担当します。まるで防具を脱いだ瞬間の剣道部の主将のように、髪の毛をきつく束ねた娘は、歯切れのいい口調で世間話をして客を退屈させませんが、ある日、緑のブルゾンを着た男が突然入って来て名古屋市議会のリコール署名を求めたときは、
「済みません、うちはこういう商売してるんで…」
丁重に断って帰したあとで、
「お客さんはリコールに賛成の方ばかりじゃないですからね。困るんですよ、お店にああいう署名持ってこられても」
なかなかに思慮深いのです。
外で昼食を済ませて、たまたま床屋の前を通りかかったときです。
娘と若者が通りにしゃがんで、のんびりと日向ぼっこをしていました。
「あれ?暇そうですね」
と声をかけると、
「ネコですよ」
「お店は?」
「こういう日もあるんです」
明るく笑った二人は、春の陽射しの中で、野良猫に餌付けをしているのでした。
一週間ほど経って散髪に出かけた私が、
「野良ネコは馴れましたか?」
あのときの光景を思い出して娘にそう聞くと、
「ええ、ようやく手から餌を食べるようになったんですけどね…」
ぴたりと鋏みが止まりました。
「ん?」
「動物病院に入院しているんですよ」
すっかり警戒心を解いて腕に抱かれるようになったネコに太郎という名前をつけて、娘はマンションに連れて帰りました。一匹の無邪気な生き物が加わるだけで、部屋はにわかに活気を帯びました。朝、仕事に出かけるとき、太郎をケージに入れるべきかどうか迷いましたが、部屋はマンションの九階です。窓さえ閉めておけば、外に逃げ出す心配はありません。ところが、その晩娘が部屋に帰ると、太郎の姿がありませんでした。窓は全部閉まっています。たった一つ、風通しのために開けてあるキッチンの小さな高窓には虫除けの金網が張ってあって、外には出られないはずでした…が、よく見ると、金網を固定している金具の一つが外れて、網の下半分がかすかに揺れていました。
娘は懐中電灯を手にほとんど反射的に部屋を飛び出してエレベーターに向かいました。高窓の下は駐車場です。車と車の間の暗がりを照らすと、柔らかい生き物がぐったりと目を閉じていました。急いで動物病院に連れて行きましたが、
「内臓をやられてるからだめかも知れないって先生が…」
挟みを持ったまま床屋が泣いて散髪を中断される経験は初めてでした。
「あんな目もくらむような高いところから飛び降りるのはさぞ怖かったでしょうに、部屋に閉じ込められたのがよほど嫌だったんですね」
娘は太郎の死を覚悟しているようでした。
数日が過ぎました。
あのときと同じように外で昼食を済ませて床屋の前を通りかかった私に、娘と父親が店から飛び出して来て、嬉しそうに言いました。
「太郎、助かりましたよ〜!」
心なしか、ねじり棒がいつもより勢いよく回っているように見えました。
終