街並みのなりわい

平成23年06月14日(火)

 減量のため、自宅から職場までの一時間十分ほどを歩いて通勤するようになると、それまでぼんやりと焦点の定まらなかった街の様子が手に取るように見えて来ました。読む人の退屈を承知の上で、まずは私の通勤の道のりに、どんな街並みが展開しているかを書き連ねてみましょう。

 どこからでもよく目立つオレンジ色の看板を高々と掲げて全国展開している大規模な自動車修理店の前を通って道一つ渡ると、頻繁に経営者の変わる中華料理店があり、隣りはデイサービスの事業所になっています。

 巨大なマンションを隔てたパチンコ屋の店頭では制服姿の若い警備員が駐車場の管理をし、ソフトクリームの美味しいコンビニの横には、撤退した白いたい焼きのあとに小奇麗な串揚げの店がオープンしました。若い店主が張り切って開店準備をしている段階から見ているせいか、何だか身内の店のような気がして、自分は利用しないくせに、前を通る度に客の入りが気になるから不思議です。

 よほど財布にゆとりがなければ若い者を連れては行けない焼き肉屋、たくさんの物件の貼り紙で店内が覗けない不動産屋、散々説明を受けた末に、結局、別の量販店で吊るしのスーツを購入して以来、敷居が高くなってしまったイージーテーラー…と、間口の狭い店舗が三軒続いて大きな交差店を渡ったところが古くからの大衆食堂で、客で賑わう様子を見たことがないのに、リニューアルしては長年営業を続けています。

 茶色の暖簾が揺れる不動産屋の隣りには、車二台並べるのがようやくの小さな板金屋があり、お寺の山門を過ぎると拠点郵便局の大きなビルがそびえます。

 高齢のガードマンが通行人に笑顔で挨拶をする有名スーパーの角を左に曲がると、イチョウの大木が四季を彩る公園を前にして、大手の製バン工場と小学校が直角に向き合っています。

 右手に石垣、左手に板塀からザクロの枝が張り出す古風な住宅を見ながら細い道を抜けて二車線のバス通りに出たら、ひたすら一直線に進みます。

 できるだけ正確に思い出してゆけば、水槽のように店内の見えるトロピカルなインテリアのスナックがあり、五人で満席になるカウンターの客を、熟年夫婦が夜遅くまでもてなしている小さな水餃子の店があって、都市設計事務所が並びます。

 背の低い生垣に青い電飾を散りばめた喫茶店は、夏が近づくとかき氷の看板が揺れて涼を誘いますが、客層は女性が中心で、男一人で入るのはためらわれます。クリーニングの取次店の隣りでは、花屋がカラフルな鉢植えを歩道にあふれさせ、続くうどん屋の店先は、閉店後も鰹だしのいい匂いが漂っています。宅配の事業所の隣りには内科のクリニックが開業して、暖かい手書きの貼紙で季節にふさわしい健康不安をあおっています。

 大きな道路を渡ったところには、店先にカップ緬を山積みにした百円ショップがあり、深夜でもスリッパを突っかけたしどけない服装の男女が出はいりしています。小さなクリーニング店の隣りの、常連客だけで成り立っているような喫茶店を過ぎた辺りで聞こえてくる明るいラテン音楽は、開放的なメロディーとは裏腹に、外からは全く店内のうかがい知れないメキシコ料理店から流れています。若者は絶対に入らない昔ながらの床屋が並び、細い道を挟んで定食五百円の恐ろしく汚い食堂があって、雨ざらしの板壁に探偵社の大きな貼紙が目立ちます。

 広い道路を横切ると、突き当たりに木造二階建ての老朽家屋があって、痩せた人しか通れないような狭い階段を上った先が喫茶店になっているようですが、怪しい人たちのアジトのような雰囲気で、とても階段を上る勇気はありません。次いで、バブル期に一大成長を遂げたに違いない印刷会社のビルが、入り口に創業者の名を冠し、隣りが白い塀に囲まれた巨大な結婚式場で、挙式の日には、インカムを耳にした黒いスーツ姿の女性が三人、きりっと背筋を伸ばして来客の案内をしています。

 大きな道路を渡ると、古びた喫茶店、居酒屋、税理士事務所の次に、秋になるとモミジの紅葉が歩道に美しい庇を作る曹洞宗の寺院が続き、さらに横断歩道を渡ると、宗派のわからないコンクリート造りの立派な寺院と、重々しい日蓮宗の山門が、ラブホテルの派手な建物を挟んで建っているのが笑えます。

 店先にワインの空き瓶をずらりと並べたイタリア料理店では、突っかい棒でひさしを上げただけの開けっ放しの部屋で、若者たちがアンティークなテーブルを囲み、有料駐車場を過ぎて大きな道路を横切ると、しばらくは飲食店が軒を連ねます。

 居酒屋、ろばた焼き屋、手羽先屋、ラーメン屋と続いて、コンビニを背に大きな道路を渡ったところにアパート斡旋事務所がありますが、餃子屋、焼肉屋、ホルモン焼き屋、ラーメン屋と、飲食店はまだしばらく続きます。中でも入り口に人の頭ほどの大きさの中国酒の空き壷を並べて通行人の持ち帰りに供している中華料理店の前は、油と香辛料のむっとするような匂いが歩道にあふれ、息を止めて通り過ぎることにしています。

 やがて飲食店街が終わり、時計屋、ネイルサロン、小学校と続いて道路を渡ると、背中に後継ぎのない淋しさを感じさせる主人の営む自転車屋があります。りんごかと思うような丸々とした歯の形の看板が目立つ歯科診療所を過ぎるとマンションが立ち並び、エレキギターの店、とんかつ屋、雑居ビル、小学校と続いて、横断歩道を渡ったところに高速道路がそびえています。水飲み場もトイレもあって雨の凌げる高速道路の下は、ホームレスの団地のようになっています。

 再び横断歩道を渡って右に折れ、自動車販売店のショールームが途切れた辺りで国道を渡ると、突き当りにまたしても自動車販売店があります。左手に続く大手葬儀会社のビルには、不景気をよそに生花を積んだトラックが頻繁に出入りしています。その先の巨大電力会社の本社ビルは、玄関に障害者の管理する花壇を配することで企業イメージをアピールしています。

 ガソリンスタンド、カラフルな女性下着店と続いたあとは、天ぷら屋を挟んで、昔ながらの床屋と、全国チェーンを展開する格安の美容室が客層を分けています。大手銀行の前で横断歩道を横切ると、コンビニ、焼き鳥屋、カレーハウスとチェーン店が続き、年寄り夫婦が細々と維持する文房具屋が並んで、角に胃腸病院のレンガ色のビルが建っています。

 右に折れたところには病院につきものの薬局があり、唐突にクラッシックカーの店が現れ、頻繁に水素ガスのボンベが搬入される装飾バルーンの店が並び、税理士ビルがあり、工事用の配管を卸す店があって、漫画喫茶があり、ゴム製品を卸す店を過ぎて小さな道ひとつ隔てたところが私の勤務する学校です…と、ここまでたどり着いたところで、私の中で予期せぬことが起こりました。人間のなりわいについて忽然と視界が開けたのです。

 人間はみんな自分以外の人のために働いているのですね。

 都市と地方、農村と漁村のような違いはあるでしょうが、伊能忠敬よろしく、このまま足を伸ばして日本中を隈なく踏査したとしても、同じような光景が延々と続くことでしょう。貨幣を媒介にして、人は他人のために車を修理し、他人のために料理を作り、他人のために土地を仲介し、他人の髪の毛を整えて生きています。経済という仕組みの中で、他人の子を教え、他人の老親を介護し、他人の病気を治し、他人の死を弔って生きています。組織が大きくなると、上司に認められたい、同期より早く偉くなりたい、人より多く給料が欲しいといった意識ばかりが肥大化するかも知れませんが、組織自体は他人の使う電気をこしらえ、他人の読む新聞を作り、他人の乗る電車を走らせているのです。

 働くということはそういうことなのですね。

 こんな自明のことわりに改めて気付いてみると、人間というものが大変可憐な存在に見えて来ました。どんなに突っ張って歩いていても、オートバイでけたたましく街を走り抜けても、高価なスーツを着て気取っていても、働いている以上、必ず誰かの役に立っているのです。一方、自分のためだけに無心に生きている虫や魚や動物たちは、食物連鎖のルールに従って、個体の存在そのものを他の生き物に捧げることで、自分以外の命の存続に貢献しています。ここに至って、いのちという壮大な相互依存システムの本質が透けて見えて来ました。人は立身出世などしなくても、世間から認められなくても、黙々と働いているだけで十分に人の役に立っているのです。

 しかし、人を目的ではなく手段にして、自分の利益ばかりを追求する立場に身を置いたとたん、事態は一変します。証拠を改ざんしてでも犯人を仕立て上げようとした検察官のように、あるいは寝たきりのお年寄りばかりを住まわせて暴利をむさぼっていたアパート経営者のように、たちまち相互依存システムから脱落して社会的制裁を受けるか、さもなければ、終日株価ばかりを気にして暮らす空疎という病に心を蝕まれることになるのです。

 そう思うようになってからというもの、街並みに展開するなりわいの多様さもさることながら、人間と言う存在の不思議さをしみじみと味わいながら、私は今日も片道一時間を越える歩行通勤を楽しんでいるのです。