一神教と日本人

平成23年07月06日(水)

 まことに根拠に乏しいことですが、焼鳥屋で言葉を交わした酔客から、絶対面白いよと勧められた『ふしぎなキリスト教』という対談本を読み進むうちに、本の内容を超えて、あ!とひらめいた考えを書き記しておこうと思います。

 それは一神教を持つ人々と私たち日本人との本質的な違いについてです。

 科学でも哲学でも解き明かせない最大の謎は「存在」ということだと思います。宇宙の始まりはビッグバンで、生命の始まりは原始の海で、物質の構成要素は分子、原子、電子、陽子、中性子…と、科学は色々な事実を明らかにしましたが、物質そのものが存在する理由は相変わらず不明のままです。優れた哲学者があらゆる存在を疑ったあげく、疑っている主体の存在だけは疑いようがないという一点において自己の実存を確認しましたが、究極の存在認識にはなり得ても、存在理由にはなりません。

 存在の理由…。

 この疑問に決着をつけないではいられない人々は、はるか昔、無から有を生じせしめる「創造の意志」としての「神」を想定することによって、根拠なき存在を生きる寄る辺なさから自らを救い出しました。形のない、従って存在理由の不要な「大いなる意志」こそ創造主、つまりGodであり、あらゆるものはGodの被創造物として存在することになりました。そしてGodの完璧な計画内容を知ろうとして科学は多方面で驚異的な進歩を遂げたのです。

『ふしぎなキリスト教』は、Godが人間の生活や文明に与えた影響について様々に考察を加えて興味は尽きませんでしたが、まてよ…と思いました。そもそもは神が人間を創ったのではなく、人々が神を創造することで、存在という難問に決着をつけたのではなかったでしょうか。私はGodをめぐるキリスト教の世界よりも、むしろ創造主などという、およそ非科学的で荒唐無稽な思考上の飛躍を断行してまで、存在という謎に決着をつけないではいられなかった人々の心情の方に関心を持ちました。

 私たち日本人は彼らの対極に位置するように思います。一神教どころか多神教ですらなく、単なる現世利益の装置、あるいは先祖供養の手段、あるいは生活を彩る行事、もしくは文化財の一つとして神仏をいただく私たち日本民族は、存在の理由には関心がありません。もちろん存在にまつわる不安の解決を求める真摯な求道者もいますが、創造主のように、自分の外に存在の理由を想定するのではなく、不安を感じる余地のないところまで自己を存在と一体化させることによって「悟り」と称する主観的解決を図るか、弥陀の本願に易々と身を任せてしまいますから、存在の理由については無関心な人々と大差はありません。つまり、私たち日本民族は、そこをゆるがせにしたのでは全てがまぼろしになり果ててしまう「存在」という難問に決着をつけなくても平然としていられるという意味で、一神教の人々とは異質な心理特性を持っているのです。

 ものごとに決着をつけようとするか否かという心理特性の違いは、民族の生き方の違いですから、当然、宗教にとどまらず、政治、経済、国家のありようから個人の生活態度に至るまで、あらゆる局面における民族規模の差異となって表面化しています。

 決着をつけなくては気が済まない民族は、石の建造物に住んで他人との境界を明確に隔します。絵画を描けば立体的に絵の具を重ね、細部にわたって写実の手を抜きません。文章は主語と目的語が明確で、曖昧な解釈を排除しています。意見が対立すれば徹底的に議論しますから、言語表現の技術は発達し、民主主義という決着方法も定着します。決着がつかない事態を回避するために、臨機に数多くの法律が整備されて訴訟社会を作ります。国家間の紛争に決着をつけるためなら武力行使もためらいません。現に一神教の国家間では、随分長い間、絶望的な武力紛争が続いています。

 一方、決着などつけなくても平気でいられる民族は、今でこそプライバシーをやかましく言いますが、隣家のくしゃみが筒抜けの家屋に住んで、他人の暮らしとの境界は曖昧でした。絵画は平面的で、主題の周辺は空白のままにしておくか、ありもしない雲でぼかしてありました。文章は極力直接的表現を避け、読み手には文脈から察する能力が求められました。決着をつけない人々は議論を好みませんから、意見表明の技術は育ちません。むりやり議論をすれば、いつの間にか情緒的対立にすり替わり、民主主義は罵声の応酬に終始して、言葉こそ武器であるべき政治家をして数は力だとうそぶかせます。数としての機能だけを期待されて当選した議員たちは、己の政治信条を語る言葉を持たず、議席を失えば、バラエティ番組で嬉々として無知をさらけ出して、一票を投じた有権者の顔に泥を塗ります。泥を塗られた有権者の側はといえば、あんなやつを代表に送り出してしまったという禍根に決着をつけることもなく、次の選挙ではまたしても、真剣に政治を志す無名の候補者よりも、スポーツ選手の名前を投票用紙に記入するのです。決着にこだわらない性向は、自分の行動に決着をつけること、言い換えれば個人で責任を取るということについても無頓着で、弥陀の本願に身を任せるように、所属する集団の意思決定に運命を委ねて思考を停止してしまいます。結果が悪くても、代表の首をすげ替えさえすれば区切りがつくと考えています。そういう人々で構成された国家は、領土が侵犯されても相手の国と決着をつけようとは思いません。

 ここまで書き進んで来ると、一神教の人々と日本人の心理特性は犬とネコほどの隔たりがあることが分かります。交わらずに暮らしが成立している間は平和でした。幕末にやって来て開国を迫ったペリーが、ぐずぐずと決着を先延ばしにする日本政府に大砲を轟かせて決着をつけて以来、常に決着をつけたがる側が主導権を握って今日に至っています。敗戦という要因がなくても、決着をつけないではいられない側と決着にこだわらない側が対立すれば、勝負は初めから決まっているのです。

 過酷な自然条件を生きる狩猟民族と、種を撒いて、あとは待ってさえいれば収穫が得られた民族の、ほとんど遺伝子レベルの差異かも知れませんが、過去の遠因よりも問題はこれからの現実です。グローバル化が加速度的に進んでゆけば、社会も加速度的に一神教の人々のルールで運営されて行きます。ところが困ったことに、私たちは決着をつけたがる人を敬遠します。家庭で、地域で、学校で、職場で、他人との違いを明らかにして決着をつけようとすると、嫌われてはじき出されます。民族はそのようにして社会的遺伝子を受け継いで行くものなのです。比較的単一性を保っている日本民族の気質は、恐らく我々自身の想像をはるかに超えて頑ななものなのでしょう。そのために国際社会では相当の不利益を覚悟しなければなりません。改善を望むなら、移民を受け入れるのが最も近道かも知れません。しかし私たちにはその決着もつけられないのです。

 やはり時間はかかりますが、一人ひとりが身近な場所でほんの少し勇気を出して決着をつけ、決着をつけようとする人を排除しない努力を重ねるしかなさそうです。