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「人権と差別〜それって差別?区別?」〜人権啓発講演会から〜
平成25年04月12日(金)
さあ、人権思想というものは自分の意思を持つことから始まるのだということを合点していただけましたか?ここからいよいよ差別の問題に入るわけですが、質問しますよ。スーパー銭湯に出かけたら、入り口に貼紙がありました。『刺青の方はお断りします (タトゥーを含む) 』。さて、銭湯が刺青を入れた人を断るのは差別でしょうか?彼は銭湯に入りたいのです。これは彼の意思です。銭湯は彼の意思を入り口で拒否しています。よ〜く考えて下さいよ。刺青を入れていても良い人はいます。だけど刺青なんか入れていないけど悪いやつもいます。断るのは差別だと思う人は手を挙げて下さい。ほら、分かれました。難しいでしょ?私も分かりませんでしたから弁護士に聞いてみました。弁護士はう〜む…とうなって、「今のところ差別とは言えないんじゃないかなあ…」という返事でした。つまり、刺青には威圧感があって、他のお客さんたちが不愉快な思いをする。排除には合理的な理由があるから差別ではないというのです。なるほどと思うと同時に、私なりに差別の定義が浮かびました。『差別とは、その人の意思が不合理に制限を受けることである』こう考えてみるとすごく整理ができました。
そこで別の質問です。皆さん、事業主になって下さい。従業員が一人必要になって募集したら二人が応募して来ました。履歴を見ると、二人とも年齢が同じ、学歴も同じ、作文書かせても面接をしても遜色はありません。違う点はAには刑務所に服役していた前科がある。さあ、どちらを雇いますか?聞けば罪状は、彼女を襲った暴漢に立ち向かって大怪我を負わせたための傷害罪でした。考えて下さいね。さあ、前科のない人を雇うという人は手を挙げて下さい。おや、迷いながら手を挙げましたね。こちらの方が断然多い。前科者は雇わないということですが、それって差別ではないですか?彼には仕事をしたいという意思があります。排除することに合理的理由がありますか?前科のある人は、また罪を犯す可能性が高いから?それって偏見じゃありませんか?暴漢に襲われたとき、彼女を残して警察を呼びに行けば、傷害罪に問われるような事態にはならなかったかも知れませんが、女性の方に伺いましょう、自分を置いて警察を呼びに行く彼と、暴漢に怪我をさせてでも戦う彼とどちらがいいですか?はい…予想通りです。自分が彼女であればもちろん戦ってくれる彼がいい。でも前科者は雇わない。だったらいっそ求人票に『前科者お断り』と書けばどうでしょう?就職試験を受けに来る手間が省けます。求人票に『前科者お断り』と書くのはどうですか?差別だと思う人。ああ、たくさん手が挙がりましたね。正しいセンスだと思います。そんなこと書いたら社会的に大変な非難を浴びることになるでしょう。訴えられたら負けますよね。彼は既に罪を償っているのです。再犯が心配なら個別に本人に色々と質問をして、その恐れがあるのかどうか、自分で確かめるべきなのでしょうね。
今度は皆さんは喫茶店のオーナーになりましょう。土地はある。頭金も貯めた。どうせ作るならとローンを組んで、完全にバリアフリーのお店を作りました。バリアフリーですから車椅子の人がたくさん利用するようになります。バリアフリーの喫茶店は近所にはありません。お店は障がい者のたまり場になりました。長居をします。一般の客の足は遠のきます。お店は客が回転しなくなります。すると収入が減ってローンが返せなくなります。さあ、どうしますか?入り口に『車椅子の方お断り』という貼紙を出すのは差別でしょうか?差別だと思う人は手を挙げて下さい。そうですね。これは差別です。車椅子の人の値段だけ倍にしますか?これも問題になるでしょうね。障がい者のお客さんだけ時間制限を設けるのも文句が出るでしょう。しかし、このままではお店の経営が成り立たない。困った経営者は悩んだ末、店を改造してバリアを作ります。段差を設け、床のいたるところに大きな植木鉢を置き、ドアを開き戸にすれば、車椅子の人は利用できなくなる。これなら経営者は責められることはありません。あからさまな差別にはなりませんからね。しかし、一番巧妙でいけない方法ですよね。バリアフリー社会を目指す世の中の方向には逆行しています。排除は合理的か不合理が。それは誰が判断するのか。難しい問題でしょう?
そういえば、ハンセン病の団体がホテルに宿泊の予約を申し出て断られるという出来事がありましたね。差別じゃないかと大騒ぎになって、ホテルは団体に謝罪しましたが、団体の怒りは収まらず、謝罪を受け入れなかった。謝って済む問題かという訳ですね。すると今度はハンセン病の団体が社会的な攻撃の対象になりました。何様のつもりだと、抗議の手紙やメールが大勢の人から届いたのですね。ハンセン病に感染力がないことは分かっていました。ホテルに宿泊したいという患者の意思を排除するのには合理的理由がない。社会はそう判断したのですね。しかし、ホテルの謝罪を拒否する団体の態度も許さなかった。しばらくしてホテルは潰れましたね。『差別とは、その人の意思が不合理に制限を受けることである』判断を間違うと社会的制裁を受けてホテルもつぶれる時代になりました。簡単に答えの出る問題ばかりではありませんが、目の前の排除が合理的か不合理かということについて、関係者が真剣な議論をすることによって人権意識を鍛えて行くしかありません。
刺青から始まって、前科、バリアフリー、ハンセン病…と、差別について考えて来ましたが、ここでちょっと視点を変えましょう。
忘れ物か多いことに悩んだ先生が、どうしたら忘れ物がなくなるか、クラスのみんなに話し合いをさせました。当事者自身に考えさせることは大変教育的ですよね。すると子どもたちの中から罰を重くしようという意見が出ました。絶対に人が嫌がる罰がいい。それで、忘れ物をした人は裸で教壇の横に立つという案が提案されました。「これなら忘れ物はしないと思いますが、どうですか?」と学級委員が諮ったら、全員一致で賛成が得られました。合理的ですね。民主主義です。やがて一人の女の子が忘れ物をしました。裸にして教壇の横に立たせる罰はどうですか?問題はありませんか?みんなで話し合って決めたルールですよ。ルールに従って裸で立たせるのが当然だという人は、はい、手を挙げて下さい。ん?いませんね。みんなで決めたことであっても裸はまずいんじゃないかという人は?ほう…全員です。なぜまずいのでしょう?全員一致で決めた罰ですよ。…そうですね。これが差別とは別次元の尊厳なのです。犯してはいけない人間の尊さ。皆さんはちゃんと分かっていらっしゃって、そういうことは人間としてやってはいけないことだろう…と、正しい判断をされました。この場合は先生が間違っています。そんなことが決まりかけたときは、それこそ人権を教えるいいチャンスなのですよね。罰として裸で立たせるのはよくない。人間の尊厳に関わる問題である。罰として給食を与えないのもよくない。人間の尊厳に関わる問題である。罰として口を利かないのもよくない。人間の尊厳に関わる問題である。それでは廊下に立たせるのは尊厳には関わらないのか。罰として教室の掃除をさせるのはどうなのか。漢字を百文字書かせる罰は尊厳を傷つけるのか。そもそも罰を与えることそのものがいけないのか。「尊厳」を現実の社会で具体的な判断基準となるような形で言葉にするのは大変難しいことですが、人の嫌がることをしてはいけないというような道徳とは違うように思います。そして、これが分かれば、「いじめ」は絶対にしてはいけないことも分かるのではないでしょうか。ホロコーストを初めとする内外の歴史の数々を例に引きながら、尊厳に関するセンスを磨く絶好のチャンスであるにもかかわらず、みんなで民主的に決めるのだからと、先生は黙って見守ってしまいました。教育者としては、そこが残念でしたね。
振り返りましょう。人権は互いの意思を尊重すること。互いの意思が違う場合は話し合って、折り合って、恨まないこと。誰かの意思が不合理に制限を受けるのは差別であること。そして、差別とは別に、人間には絶対に犯してはいけない「尊厳」があること。「人権」はそもそもが一神教の世界から発生した思想でした。むやみに「和」を行動規範にして来た我々は、とりあえず事に当たって自分の意思を明確にすることからスタートしなければならない段階のようですね。時間になりましたので終ります。最後まで聴いて頂いてありがとうございました。
終