音の無い世界

平成26年01月20日(月)

 仕事で北茨城市に出かける日、不測の事態を心配して早め早めに行動する癖で、発車時刻より四十分も早く名古屋駅に着いてしまった私は、新幹線の待合室で時間をつぶすことになりました。土曜日ということもあって、待合室は着膨れた旅行客でごったがえしていました。幸い一つだけ空いていた椅子に腰を下ろすと、目の前の壁では、巨大なテレビ画面がNHKの番組を放送していました。海女さんによって天日干しにされた、握りこぶしほどの大きさの赤い色の海産物を、若い女性アナウンサーが笑顔で紹介しています。しかし音量が極度に絞ってあるので、ほとんど何も聞こえません。

 やがて連続テレビ小説「ごちそうさん」が始まりました。幼なじみの女医である亜貴子との浮気を疑われて、め以子に西門家を追い出された悠太郎が、頭に包帯を巻いた痛々しい姿で、ためらいつつも帰宅した場面です。手作りおやつをねだる子供たちの作戦が効を奏し、家族の「食」を支えることに自分の役割を見出して、ようやく深刻な引きこもり状態から脱しため以子と、自らを説明することにおいて言葉を惜しみ過ぎる感のある不器用な悠太郎が、向き合って何やら真剣に話し合っています。しかし音声が聞こえません。め以子の頬を一筋の涙が伝い落ちました。悠太郎が神妙な顔で何か言っていますが、何を言っているかは分からないのです。

 こういう状況は、手の届かない場所が痒くてたまらない時のようにイライラしますね。交互に大映しになる二人の口元を食い入るように見つめるのですが、唇の動きから会話の内容を理解することは不可能でした。時折、かすかに聞こえるめ以子の言葉の断片が、空腹状態で醤油の焼ける匂いだけ嗅いだ時のように、知りたいという欲求を掻き立てました。恐らく同じ思いなのでしょう。周囲では画面を睨みつけて耳をそばだてる旅行客の姿がたくさん見られました。それにしても、架空の家庭で起きている、どうでもいいような揉め事の成り行きが、どうしてこんなに気がかりなのでしょう。朝の忙しい時間帯に三十分のテレビドラマを毎日観続けるゆとりは、どこの家にも恐らくありませんが、わずか十五分であれば朝食を取りながらでも観ることができます。そして、一度垣間見てしまった他人の揉め事は、たとえ架空の物語であっても、途中で放り出す訳にはいかないのです。

 その種の物見高さが、人間に特別に与えられた、社会性という特性の一つの側面なのですね。その特性を持つ故に、私たちは時に人を思いやり、あるいは傷つけたりしているのでしょう。連続テレビ小説という放送形式が持つ人心掌握力の大きさを改めて思い知る一方で、音のないテレビを平然と流して省みないJRの姿勢に、にわかに腹が立って来ました。

 そう言えば、病院の待合室でも同様の欲求不満状態にさらされた記憶があります。あの時も診察を待つ患者たちは、凶悪犯人逮捕を報じるニュースの画面を、全身を耳にして見つめていました。待合室の客同士の会話を妨げることのないように、或いは、駅のアナウンスを聞き漏らすことのないように、様々な配慮の集積が音のないテレビなのでしょうが、流す以上は、せめて画面の下に字幕を表示して欲しいものです。目の前で展開する会話が聞こえないほどイライラすることはありません。

 ふと耳の不自由な人の立場になりました。この種のフラストレーションを常時抱えた状態で日常を過ごしているのだとしたら、大変な忍耐と諦めが必要です。以前、日本語番組の画面に流れる字幕表示を不愉快に感じる旨の文章を書きましたが、観る側に字幕の有無を選択できる自由が与えられるべきではあるにせよ、私の心の中の不愉快の質が、格段に穏やかなものに変化したことは確かです。そして、音のない世界は、ひょっとすると目の見えない世界以上に孤独なものではないだろうかという考えが、突然、手応えのある実感を伴って浮かんで来たのでした。