人に迷惑をかけない罪

平成26年09月28日(日)

 若者が道路や通路にしゃがむ姿は珍しくなくなりました。注意をすると、別に迷惑かけてないじゃん、という返事が返ってきます。迷惑をかけていないと言われると、注意した側は言葉に窮します。みっともないとかマナーとか言い出せば価値観の押しつけになりますし、そもそもそんなお説教は、同じ価値観を共有する世代にしか通用しません。修学旅行の集団は、駅のコンコースに腰を下ろして教員の指示を聞いています。地面に直接座ることが教育の過程で公認されている以上、抵抗はなくなっていると考えた方がよさそうです。しかし考えて見れば、駅のトイレの床を踏んだ不特定多数の足がコンコースを通るのですから、コンコースに直接腰を下ろすのは、トイレの床に座るのと変りません。一方ではいたるところに消毒用のアルコール噴霧器を常備して衛生に気を使いながら、地面に直接腰を下ろすことを容認する教育の在り方には疑問がありますが、人に迷惑をかけてはいません。電車で化粧をするのも、スマホのゲームに夢中になるのも、髪の毛を赤く染めて町を歩くのも、改札口で長い間抱き合って別れを惜しむのも、人に迷惑をかけてはいないのです。

 人は自由になったのでしょうか…。

 人に迷惑をかけないことを行動規範にすると、迷惑さえかけなければ何でもできる訳ですから、広範な自由を手に入れたように錯覚しますが、実はこんなことがありました。

 約束をして面談の時間を持った学生が、私と話をしている間、ずっと携帯電話を握りしめているのです。理由を聴くと、採用試験を受けた会社から留守電が入っていたそうで、

「きっと採用が決定したのだと思いますから、今度は電話にでなければと、朝からずっと握りしめているんです」

 学生は嬉しそうです。

「こちらからかけたらいいのに」

 と言うと、学生の返事は思いがけないものでした。

「いえ、先方がお忙しかったりするとご迷惑ですから、かかって来るのを待ちます。留守電では、かけ直すとおっしゃっていますから…」

 迷惑をかけることを過度に怖れると、自由に電話がかけられないのです。

 こんなこともありました。

 前日に進路のことで相談に乗った学生が廊下の向こうから歩いて来ます。挨拶をするつもりでこちらも歩を進めましたが、彼は私の顔を見ようとはしません。最後まで目を合わせることのない学生に、挨拶をするタイミングを逃してすれ違ったものの、どうにもその不自然さが気になって、

「おい、挨拶ぐらいしようよ」

 昨日親密に話し合ったじゃないかとたしなめたところ、これまた意表をつく答えが返ってきました。

「いえ、私なんかがご挨拶をすると、先生まで挨拶しなければいけなくなって、ご迷惑ではないかと思いまして…」

 迷惑をかけることに過敏になる余り、挨拶もできない若者が出現したのです。

 これが特別な例なのか、それとも現代の若者の傾向なのかが知りたくて、

「さあ、この二人の学生の気持ちが分かる人は手を挙げて下さい」

 学生全体に聞いてみましたが、何と手を挙げた学生の数は実に三分の一に上るのです。

 結論が近づきました。

 人に迷惑をかけないことを行動原理にすれば、人と関わることに臆病になるのです。裏返せばそれは、人から迷惑をかけられることを好まないということでもあります。だからプライベートに立ち入る程度を間違えると、「うざい」と敬遠され、関係に夢中になり過ぎると「暑苦しい」と批難されるのです。

 しかし、人の世は人と関わらないで生きることはできません。傷ついたり傷つけられたりを覚悟の上で人に立ち入る勇気がなければ議論ができません。親友ができません。恋愛ができません。人と関わることによって相互の脳に感情という現象を伴いながら化学変化が起きます。その変化を成長であると信じることが、人生に対して肯定的であるということでしょう。そして不思議なことに、肯定する態度を持つことによって、変化は成長に向かうのです。

 たくさんの人が迷惑をかけないために抑圧した衝動は、巨大なエネルギーとなって、マグマのように社会の底に溜まっています。そこへ匿名で書き込みができるインターネットの噴火口が設定されると、迷惑をかけないで生きている人たちの、迷惑をかけたい衝動が噴出します。直接自分に関わりのない出来事や人物に対して、言うを憚る内容の中傷や酷評や怨嗟を表現する一方で、迷惑をかけることを恐れて挨拶すらできないような小心な日常を過ごすのはバランスを欠いています。人に迷惑をかけないという呪縛からの適度な開放が、社会の閉塞性を改善する数少ない可能性の一つのように思えてなりません。