地下鉄の叱責

平成26年11月02日(土)

 昼下がりの地下鉄に風変わりな中年女性が乗り込んで来ました。年齢は五十代半ばでしょうか、平均よりも背が高く、髪の毛を無造作に後ろで束ね、化粧っ気のない顔をして、腫れぼったい目にゆとりがありません。

 中年女性は電車に乗り込むが早いか、反対側のドア付近で壁を背にして立っている大人しそうな若い女性を正面から睨み付けて厳しい口調でこう言いました。

「あなた、こんな所に立ってちゃダメでしょ!」

 若い女性は、

( え?まさか私のことじゃないですよね?)

 という顔で驚いて周囲を見回しましたが、

「立ってちゃダメって言ってるでしょ、席が空いてるんだから座りなさい!早く!」

 中年女性は息がかかるほどの距離まで顔を近づけて厳しく命令しました。

( 知らない人なんだ…)

 乗客は、私も含めて、二人は知り合いだろうという判断が間違いであったことに気が付くと慌てて目を逸らし、視界の隅で二人を注視しました。

 さすがに指示通り座席に座るのには抵抗があったのか、若い女性はシートには向かわず、少し離れた場所に移動して立って、ことさら無表情を装いましたが、見知らぬ人から公衆の面前で頭ごなしに叱責された理不尽に、はらわたが煮えくり返っているであろうことは十分察しがつきました。

 一方、中年女性はというと、私の一人置いた左隣りに前屈みの姿勢で座り、反対座席の乗客たちを監視するように睨んでいましたが、その両眼が発する異常な威圧感から逃れたかったのでしょう、真向いに座っていた大学生風の女性がバッグからスマホを取り出して両耳にイヤホンを付けました。

 それが引き金になりました。

「あなた何付けてるの、取りなさい!そんなもの付けちゃダメでしょ!イヤホンを外しなさい!」

 中年女性は身を乗り出すようにして噛みつくように叱責しました。

 女子大生がしぶしぶイヤホンを外したとき、電車が駅に止まりました。思ったより大勢の乗客が一度に降りたのは、中年女性と同じ車両に乗り合わせている危険を避けて、何食わぬ顔で隣の車両に移動したのかも知れません。

 もちろんイヤホンの大学生もそそくさと電車を降りましたが、その背中に向けて、さらに中年女性の声が飛びました。

「歩きながらイヤホンなんか付けたら絶対ダメだからね!分かってるでしょう!」

 とにかく大変な女性でした。

 それから先、恐らく何人もの人が彼女から謂れのない叱責を受けて大切な一日の気分を台無しにしたことでしょう。

 私は「差別」ということについて考えました。

 恐らく中年女性は何らかの精神疾患を有しているのでしょうが、彼女を避けた乗客の行動は障害者差別に当たるのでしょうか。

 差別を私なりに分かり易く定義すれば、

「その人の意思が不合理に制限を受けること」

 になりますが、他人と同じ車両で同じように扱われたいという彼女の意思が、乗客が彼女を避けることによって制限を受けたとしても、そこには合理性があります。誰しも公衆の面前で理不尽な叱責を受けたくはないのです。

 では、彼女の異常行動を経験した乗客たちが精神障害者全般に対して忌避する態度を持ったとしたらどうでしょう。精神疾患にも様々なタイプがあります。通常の人の持つ健全な攻撃性を持ち合わせないために社会適応が困難になっているタイプもありますし、攻撃性どころか、ありもしない他人からの敵意を感じ取って怯えてしまうタイプもあります。また、私たちが体調を崩すことがあるように、精神疾患にだって調子のいい時も悪い時もあるのです。それらを一様に忌避する姿勢で臨んだ時、その態度は合理性を欠き、偏見に満ちた差別的なものになるのではないでしょうか。

 ところが人間の知性の中心にはカテゴライズするという能力があります。実はこれが、偏見や差別のない社会を作ろうとするときには、思いがけず厄介なものになるのです。

 例えばサルは、たくさんの食べ物と一緒に風呂敷が置いてあっても、ひとまとめにして運ぶという行為をなかなか思いつきませんが、人間は包むだけでなく、同じ種類のものだけを包んで名前をつけるのです。四つ足で尻尾のある生き物のうち、ニャーと鳴くものを包んでネコという名前をつけ、ワンと鳴くものを包んでイヌと呼ぶという作業の延長線上に、無数の言葉や概念を創造し操作することによって、高度な文明を構築して来ました。その能力が両刃の刃物のように偏見や差別を生むのです。「女性」は組織に馴染まない。「精神障害者」は何をするか分からない。「身体障害者」は権利意識が強すぎる。「知的障害者」は何を考えているかわからない。「ホームレス」には社会性がない。「在日朝鮮人」は日本を敵視している。「刺青」をしている若者は社会的に逸脱している。「母子家庭」の子供には問題児が多い。「夜の接客業」は生活が乱れている。「土木作業員」は気性が荒い。「前科のある人」は再犯の恐れがある…等々、偏見や差別はわずかな実例をカテゴライズして、一定の集団に当てはめるところから生まれます。カテゴライズは学問的考察をするためには欠かせない手法ですが、現実の生活においては有害な副作用を持つことを意識しなければなりません。そうでないと、たまたま不作法な若者に出会ったことで、今どきの若いやつはと若者全体を批判し、たまたま上司から寒い駄洒落を聞いたことで、まったくおじさんはどうしようもないと中高年全般を否定して、偏狭な生き方を自らに強いることになるのです。結局は、目の前の人を個人として平明に見るという当たり前の姿勢が、偏見差別のない社会を作る上において最も大切な資質になるのでしょう。