決定のプロセス

平成26年08月08日(金)

 自由と平等は人間社会が実現を求めて止まない価値ですが、両方を実現するのはほとんど不可能だと思わなくてはなりません。自由を重んじれば格差が生じますし、平等を重んじれば自由は制限を受けます。当然、どちらを重視するかによって政治手法が違って来ます。

 自由という価値を中心に据えて国家を運営しようとすれば民主主義的手法をとることになります。自由な人々の様々な意見を集約して国家の意思を決定する訳ですから、そのプロセスは面倒で時間がかかります。民主主義とはイデオロギーではなく、自由主義国家が採用する意思決定の技術に過ぎません。民主的手続きによって得られた結論は、常に複数意見の妥協の結果であり、妥協の結果であるという意味において全員にとって不満足なものなのです。

 一方、平等を中心に運営される国家は、個々人の自由を認めては成立しません。平等が最も重要な価値であることを全員で共有することから出発する政治体制は、異なる価値の併存を認める訳にはいかないのです。従ってその意思決定手法の本質は、全体主義的であり独裁的であり、その分、決定プロセスの速さは民主主義的手続きの比ではありません。批判勢力による体制の交代が想定されていませんから、一旦決定された事柄は着実に実行に移されて覆ることがありません。国家は成員に価値の否定を許さない情報操作の権限と強制力を有します。

 ところが人間の本性は、自由を実現すれば不平等を嘆き、平等を実現すれば自由に憧れるものであるために、自由を重んじる国家では、税制や社会保障制度などを駆使して不平等の是正を図り、平等を中心に置く国家では、体制維持を揺るがさない範囲で、国民に大幅な経済活動の自由を認める傾向が続いています。


 さて、私たちは自由を政治的価値とする国家に所属しています。ということは、民主的手法による意思決定を重視するという一点をゆるがせにしては国家の根幹が崩れます。どんなに面倒で時間がかかっても、様々な意見を尊重し、集約して国家の意思を決定する姿勢そのものが、自由を価値に据えた国の取るべき態度なのです。しかるに、この民主主義という面倒な手続きを経ないで国家の重要な方向転換を決定するという暴挙が行われています。戦後歴代内閣が憲法抵触を理由に内外に行使を否定し続けて来た集団的自衛権を、内閣による憲法解釈の変更という手品のような方法で容認することを決定したのです。


 言語の持つ特性として曖昧さを有する日本語表現は、憲法条文と言えども柔軟な解釈を許す余地に満ちています。

 『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』

 戦争放棄ということばから、私たちはこれを、広く戦争一般を行わないという国家の意思表示と理解しますが、よく読めば憲法は、「国際紛争を解決する手段としての戦争」を放棄しているのです。例えばテロとの戦いや国内の治安維持を目的とした武力行使を否定してはいません。前項の目的を達するため、陸海空その他の戦力は、これを保持しないという文言も、同じ文脈で読めば、テロ対策や国内の治安維持が目的ならば保持できるのです。国連の平和活動に参加するのも国際紛争を解決する手段ではありませんから、自衛隊の存在は憲法違反ということにはなりません。人を刺すための包丁は持たないけれど、調理用の包丁は持っているのと同じですね。