創造主

平成27年09月11日(金)

 オリンピックのエンブレム盗作疑惑は、様々な他のデザインを巻き込んで大変な騒動になりました。他人の意匠に似ているということは、これほどまでに大きな問題なのだと改めて思い知りました。しかし、それを契機に周囲を眺めて見ると、意匠とまでは言わないまでも、この世は人間の意思や思いで溢れているのですね。

 私が今キーボードを叩いているパソコンは、ハードもソフトも誰かが懸命に開発したものです。パソコンが載っている机も、デザイン担当者が図面を引いて、製造メーカーが会議を開き、あれこれと検討したあげくに製品化に漕ぎ着けたものでしょう。同様に、私が座っている椅子も見知らぬ誰かの思いが形になったものです。背もたれの曲線一つ、座面の下のスプリグ一つにも、苦心惨憺した研究成果が込められているはずです。部屋のカーテンも、照明器具も、目の前の筆記用具も、ホチキスも、カッターナイフも、どれもこれも、さかのぼればたった一人の人間のアイデアにたどりつきます。コップも花瓶も私が身に着けている服も今飲んだコーヒーも、誰かの思いが実現した結果です。

 さらに目を転ずれば、住んでいるマンションも、誰かが土地を取得し…ということは誰かが土地を手放し、マンション建設を計画し、資金を調達し、設計し、入札して、施工業者が決まるまでに、複数の競争会社の担当者がしのぎを削り、最後はニッカポッカを穿いたお兄ちゃんたちが、足場の上で汗を流して完成させたものです。マンションの前を走る道路も、立っている標識からカーブミラー、信号、歩道橋やオービスに至るまで、都市設計の図面を引いた誰かの思いが形を得て存在しています。マンション脇で盛んに蝉を鳴かせる桜の老樹も、初冬になると黄金に色づくイチョウの街路樹も、誰かが何らかの意図でこの場所に植えて葉を繁らせています。喋々がひらひらと蜜を吸う花壇の花々も、子供たちが遊ぶ公園の砂場も、小さな手の中のスコップも、ブランコも、シーソーも、出発点は誰かの意思なのです。

 そう考えてみると、私の周囲に存在するもので、人の意思の関わらないものを探す方が大変です。原材料そのものの存在を除けば、自然といえるものといえば、空や雲や風や、ついさっき私の血を吸って飛び去った蚊ぐらいのもので、朝食べた米も野菜も魚も梅干しも、人間の意思と労働が作り出したものばかりなのです。

 私は書店で目ぼしい本を探しているときなどに、ふいにたまらない息苦しさに襲われることがあります。本こそはまさしく作者の思いの結実です。大型書店の書棚に並ぶ膨大な書籍の中に封じ込められたおびただしい人間の意思が、洞窟の壁一面にぶら下がったコウモリが一斉に鳴き出しでもしたかのように、私に向かって話しかけているような気がします。歓喜、怨嗟、驚愕、懺悔、批判、慈悲、怒り、悲哀、悲嘆、思索…数限りない感情を伴った作者たちの思いは、出版に至るまでの複数の人間の意思も加わって、想像するだけで息苦しさを催すほどの喧騒なのです。旅に出る、何かを食べる、犯人を捕まえる、無駄話をする、スポーツを中継する、ニュースを追う、解説する…。複数のチャンネルがコマーシャルを含めて終日放送し続ける番組の数々も、企画会議から台本制作、リハーサルから放映まで、そこに注ぎ込まれる人間たちの意思とエネルギーの量は、視聴者の想像をはるかに超えているでしょう。

 こうして考えて来ると、創造主としての絶対の神があって、自分に似せて人間をこしらえたという話しは当たっているような気がします。実に人間は、神が造りたもうた自然を用いて、あらゆるものを創造して生活しているのです。これだけの規模で創造する能力は、蟻が巣を作ったり、蜂が蜜を作るのとは次元が違います。都市を計画し、ビルを建て、車を製造し、電車を走らせ、絵を描き、小説を書き、音楽を作曲し…人間はひたすら創造してやまない存在なのです。

 神の創造の素晴らしさが、「多様性と調和」であるとすれば、人間の創造も調和を意識したものでなくてはなりません。調和を意識することを忘れたとき、人間は神の最も偉大な特性から離れ、神の国を追放されることでしょう。種が絶滅するほどの乱獲も、気象が変化するほどの温暖化も、民族や宗教の名の下に繰り返される人類同士の殺戮も、特定の集団を搾取して生み出される一部の層の豊かさと大多数の貧困も、調和を逸した行為と言わなくてはなりません。やがて人間を頂点とした食物連鎖や生存条件の破壊が決定的になる程度に調和が乱れたとき、もう一つ上位の次元の大胆な調和が、人類の滅亡という形で実行されるのでしょう。この世は結局は一人一人の創造の総和であり集積です。日常的には買い物をするとき、調理をするとき、洗い物をするとき、煙草を吸うとき、仕事上では魚を捕るとき、農薬を使うとき、商品を開発するとき、山を削るとき、さらに大きくは国家を運営するとき、法律をつくるとき、その任にあるものは必ず調和を意識しなくてはなりません。一人一人が偉大な創造主であることに思い当たりさえすれば、おのずと襟を正す気持ちになるのではないかと思うのですが…。