個を超える価値

平成29年03月30日(木)

 息子が小学生の頃です。全校生徒が制服代わりに着用を義務付けられた青いジャージの体操服が、夏は蒸れてつらそうでした。汗がアトピーの原因になって困るという複数の保護者の声もありました。そこで私にPTAの役員が回ってきたのを機に、服装の自由化を提案してとんでもないことになりました。ジャージのままでいいという意見と、自由にすべきだという意見に分かれて総会は紛糾したのです。

「ジャージは長年続いて来た制服のようなものですから、私は変える必要はないと思いますが…」

「いえ、汗やアトピーで不都合な子供がいるから服装は自由にしてほしいと要望しています。ジャージを着せたい人は着せればいいのです。自由というのはジャージを着る自由も含んでいるのですからね」

「自由にすれば華美になる可能性があります。服装はジャージと決まっているから、子供たちは服装のことに気を遣うことなく遊びや勉強に専念できるのです。そうは思いませんか?」

「華美にならないようにするのは家庭の教育の問題でしょう?あなたのお子さんの服装が華美になるのを防ぐために、汗やアトピーで不快な思いをしている子供に我慢を強いるのはどうかと思いますが…」

「あの…私はジャージにはこだわりませんが、学校には統一感が必要だと思います。青いジャージの子を見れば、あれはうちの小学校の生徒だと分かりますし、子供たちも所属意識を持ちます。そこが大切だと思いますよ」

 と、結論は出そうにありません。

 そこで執行部が画策し、

「総会では一部の保護者のご意見しかお伺いできませんので、日を改めてクラス毎に少人数でしっかり話し合って頂く機会を持つことにしました。ご存じのようにジャージは学校の規則ではなく、あくまでもPTAの取り決めですから、教員は極力口を挟まず、話し合いの司会進行を担当したいと存じます」

 時を置かず全校一斉にクラス別の話し合いが行われましたが、どうやら司会の教員には一定の方向が指示されていたようで、

「ジャージは暑いので、夏はTシャツでもいいのではないでしょうか」

 という保護者の意見は、

「ジャージはどうしても蒸れますからね。よく分かります。しかし、華美になるのを心配したり、統一感を大切にしたいという声もありますので、Tシャツは白でも構いませんか?」

「別にTシャツであれば色にはこだわりませんが…」

 と変換し、

「汗がアトピーの原因になるので、夏はTシャツを着せてやれると有り難いです」

 という意見に対しては、

「確かにアトピーはつらいですよね。白い綿のTシャツならいいですよね?」

「はい、それなら有難いと思います」

 と誘導して、クラス別に集計された結果が全教室分まとめられました。

 やがてこんな内容の通知が保護者に配布されました。

『夏は学校指定の白いTシャツを着せたいという意見が多数を占めたので、同封の購入票に服のサイズを記入して提出して下さい』

 服装の自由化を求めたら、新しく夏用の制服が制定されたのでした。

 服装の自由化を求める人々は、「個」を大切にしています。自分のことは自分で決める。そこに「自由」という価値を感じる人々です。一方、制服を求める人々は「個を超えたもの」を大切にしています。華美にならない統一感に「規律」とか「秩序」という価値を感じているのです。個を超えた価値を大切にする人々は、個人の自由に価値を置く人々に比べ、結束力においても組織力においても持続力においても優っています。なぜならば、本来ばらばらな個人は、共通の価値を得てようやく結束が可能となり、結束した集団は価値の実現という共通の目的のために役割を分担し、分担した任務を果たすために構成員は努力を継続するからです。

 ジャージの逸話を例に引けば、服装の統一という「規律」や「秩序」に価値を置く人々は、共有する価値の下にまとまりを持ち、新たに夏の制服を作るという案を執行部に働きかけて、その方向で教員たちに話し合いの進行をさせました。極めて組織的な運動を展開して目的を達したのです。しかし、「個」を大切にする人々は、個人のままでいることに価値を見出しているのですから、ジャージに反対するための個人的な意思表示は可能でも、結束力はありません。結束しなければ組織化はできません。組織が成立しなければ役割の分担を伴う継続的な努力などできるはずがありません。そして、これは明記しなければならないことですが、民主的な手続きを踏んで決定された以上、夏の制服は全校児童生徒とその保護者に対して正当な拘束力を持つのです。