金魚の生、人間の生

平成29年09月18日(月)

 金魚を眺めながら考えています。

 私はなぜこの金魚たちのように、ただ生きているだけで満足ができないのでしょうか。

 朝起きて、水槽に明かりをつけると、それが合図のように、三匹の金魚はガラスに鼻先をこすりつけながら、盛んに尻尾を振って餌をねだります。水槽の蓋の隙間からパラパラと水面に散らしたフレーク状の餌をむさぼるように食べつくした三匹は、底に落ちた餌をあさり、水草に付着した餌を突ついて、しばらくは忙しく過ごしますが、やがて食べ物がないと悟るや、ふわふわと水槽内を無目的に泳いだり、砂利の上でじっと体を休めたりして、ひなが一日、観る者の目を楽しませます。夕暮れの餌を終えて明かりを消すと、金魚たちは動きを止めて水槽の中ほどで漂いながら、じっと翌朝の朝を待つのです。

 与えられた環境の中で、食べて、寝て、ただ生きているだけで、何の不安も過不足もない金魚たちに比べて、私はどうでしょう。観た映画が期待外れだったといって腹を立て、食堂の店員の態度が悪いといって不機嫌になり、調子に乗って飲み過ぎたことを後悔しながら不愉快な朝を迎えます。人間ドックの結果が届く度に、体の内部でとんでもない病気が進行しているような不安に襲われ、突然カロリー制限を宣言して周囲を驚かしたかと思うと、思うように体重が落ちないことにいら立って、食べ物まで我慢する人生に何の意味があるのかとばかり、食事の前にアンパンとジャムパンをぺろりと平らげたりするのです。

 ただ生きているだけで満足する…。

 金魚ですら易々とやってのけている、こんなにもシンプルなことが、どうして私にはできないのでしょうか。

 生きているだけで満足できない原因は、私たちの側に、生きること以上の欲望が存在するからであると考えた人々は、欲望そのものを制御することに取り組みました。物に対する欲望を捨てるために、商業活動から隔絶した山奥に修行の場を置きました。自分を飾りたいという欲望を捨てるために、髪を剃り、白黒の衣服のみを着用しました。性欲から離れるために、修業の場には異性の立ち入りを禁じました。人生に、生きること以上の意義を求めないように、炊事、洗濯、掃除、托鉢などなど、日常の生活を維持する作業のみに専念しました。美食に対する欲望から自由になるために、食事は極限まで質素な内容になりました。睡眠も切り詰め、会話も慎み、テレビも観ない状態で、年単位の生活を送るうちに、不満足の原因である欲望そのものがすっかり鳴りを潜めます。そして欲望に惑わされない清浄な自分の中に、仏性…即ち、人も金魚も等しくこの世に存在せしめている大いなるものを発見しさえすれば、揺るがない安心の境地が得られるはずだと考えたのでした。どうですか?現在という時を易々と生きている金魚たちと違って、私たちの欲望は、これほどまでに世俗の刺激を遮断した環境に身を置かなければ制御不可能なほど強烈で執拗なのです。しかし、こうして一定の修行を積んで得度を果たし、山を下りた僧侶も、住職となって妻子を持ち、寺の経営に心を悩ますようになると、やれ家族葬が増えて仕事が減ったとか、息子が寺を継がないとか、檀家の未亡人との仲を妻が疑って困るとか、本堂の修理のための寄付が思うように集まらないとか、山の生活など嘘のように、心乱れる日常に埋没するのです。

 それではいっそ、欲望は片っ端から満たしてやろうと考えたらどうでしょう。時流を読んで目ざとく利殖に励み、念願の高級マンションを購入しても、しばらくすると、もっと環境の良い場所に、さらに贅を尽くした一戸建てが欲しくなります。社長と呼ばれ、ブランドの洋服を着、高級車に乗り、美食を重ね、愛人を持っても、もっと高い洋服を着、もっと高級な車に乗り、もっと美味いものを食べ、もっと若くて美しい愛人が欲しくなります。功成り名を遂げて、欲しいものは何でも手に入る立場になって、ふと見渡すと、家族を含めた周囲の人間が、自分という人格に敬意を払っているのか、地位や財力に群がっているのかが分からなくなります。そして運転手つきの高級車の後部座席に身を沈め、母親の異なる三人の子供たちの相続について、後顧の愁いのないように処理するにはどうしたものかと心を煩わせながら、信号で停まった横断歩道に、子供を真ん中に手をつないで歩く、貧しくも幸せそうな親子連れを見て、もはやどんなに努力をしても満たすことのできない欲望が、心の奥深くに埋もれていたことにしみじみと気付くのです。