戦う精神について

令和1年10月16日(水)

 ラクビーの試合に寄せて、今村裕氏が寄稿した産経新聞の記事を読みました。私たちがワールドカップのラクビーの試合に感動するのは、そこに日本人が失った『戦う精神』を見るからだという趣旨でした。戦後の教育は徹底した平和主義であり、子どもたちは戦うことを悪のように教えられました。しかし『戦わない日本の平和』は『戦うアメリカ』の傘の下で守られて来たと氏は鋭く指摘するのです。いじめで子どもが命を絶てば、学校はすぐさま生徒に『命の大切さ』を訴え、教育委員会は『こころの教育の重要性を痛感している』と声明を出し、文部科学省は『道徳教育』の重要性を叫び、スクールカウンセラーが『こころのケア』に当たる…。そんな現代の風潮に氏は疑問を呈しています。『いじめと戦え』と教えることは『いじめは悪い』と教えること以上に大切ではないかと言うのです。自分の身や自尊心を守るために戦う精神は素晴らしく、『武は高貴である』という考えは、日本以外のまともな国ならば、どこでも通用する観念であると断じた上で、『戦う精神』を失ったことは重大な国家的損失であったと氏は主張します。ラクビーの試合の興奮冷めやらぬ中で、なるほどその通りだと共感する一方で、さはさりながら…と思うのです。

 武をもっていじめと戦うことを是とすれば、厄介な問題を想定しなければなりません。例えば陰湿ないじめの継続に耐え切れず、いじめられている側が刃物を忍ばせて登校したことが発覚した場合、問題児扱いされるのはいじめた側でしょうか、刃物を所持していた側でしょうか。刃物は持たないまでも、いじめに対抗するために空手を習い覚えたいじめられっ子が、彼を取り囲んで侮辱するいじめの首謀者の鼻の骨を折ったとしたら、いじめた側はたちまち被害者として同情の対象になり、武を行使して自尊心を保った側は問題児扱いを受けるのではないでしょうか。保護者は謝罪だけでは済まないで、監督責任を負うことになることでしょう。ところが、いじめられた側が遺書を書いて自殺未遂をするか、不登校にでもなって事が明るみに出れば、今度はいじめた側が責任を問われ、いじめられた側は手厚い心のケアを受けることになるのです。

 弱者の時代には存分に弱者であることが身を守る手段であることを子どもたちは知っています。そもそも民主主義社会は暴力を否定して成立しました。複数の意見や利害の対立を、武力を用いることなく、話し合いで合理的に解決する手続きとして民主主義は登場したのです。格闘技もラクビーも、わざわざルールを設けて、その範囲での戦いを楽しむためのゲームに過ぎません。ゲームの世界で許された『戦う精神』を日常に持ち込む訳には行かないのです。民主主義社会では実生活における戦いの最終形態は裁判ということになりますが、ラインでの中傷や集団的無視といった陰湿な子どものいじめが、その段階で刑事訴訟の対象になるとは思えません。ところが、民事訴訟で戦おうとすれば、損害賠償でも慰謝料でも、いじめによる被害が発生しなければ訴えの理由が成立しません。つまり、いじめを糾弾するために民主的な戦いのステージに上がろうとすれば、まずは被害を受けて弱者にならなければならないのです。民事訴訟は訴えた側に証拠を整える義務がありますが、いじめられた側が死亡した場合でも、第三者委員会がいじめの事実を否定したり、いじめと自殺との因果関係は不明という報告をするような学校にあって、いじめの存在を明確に示して提訴に及ぶのは至難のわざと言わなければなりません。弁護士費用を含めれば、経済的にも時間的にも大変な負担を原告側に強いることになるでしょう。いじめの被害者が提訴を念頭に置いて対処しようとすれば、むしろ積極的にいじめを誘発し、その様子をこっそり撮影したり録音したりと、被害者も陰湿な戦いに取り組まねばなりません。陰湿ないじめの被害の証拠を陰湿に収集する…。それが今村氏の言う『戦う精神』とも『高貴な武』とも思えません。

 論旨が迷走しています。要するに個人レベルで武をもって戦うには社会秩序が成熟し過ぎていると思うのです。では国家レベルではどうでしょうか。今も世界のどこかで戦火が絶えないところを見ると、国際的には社会秩序が成熟しているとは言えません。国際司法裁判所も、紛争当事国の双方が合意しなければ開廷されないとなると、実質的には機能していないのと同じです。そんな中で、我が国ではいよいよ憲法改正が議論され始めています。無謀な戦争に負け、戦いを放棄した弱者として戦後をスタートしたにしては、我が国は強力な武力を持つに至りました。それもアメリカの意向です。しかし領海に侵入した外国の船団に大量に珊瑚を盗まれても、武をもって戦う姿は見られませんでした。背後に強大な国家があるにせよ、相手が民間漁船である以上、警察権以上の武力は使えないという法的な壁が存在しているのでしょう。領空を侵された上に自衛隊機にレーザーを照射されても、遺憾だ遺憾だと相手国に抗議をしてみるだけで、やがてそのこと自体、なかったことのように過ぎてしまいました。国家レベルでも弱者に甘んじてしまう自国の姿に対して、防戦ばかりに終始して決して攻め込まないラクビーチームを見るような歯がゆさを感じる一方で、もしもあのとき武をもって対処していたらと考えると、それから先の国家間の容赦ない虚々実々のかけ引きにとても耐えられそうにありません。周囲を海と言う天然の堀に囲まれた穏やかな島の住人たちには、陸続きの国境を営々と護り抜いて来た国々の荒々しさもしたたかさもありません。戦えば勝利する力と戦術を持ちながら、戦わずして国家の誇りと国益を護る外交手腕を持たずして安易に腰の刀を抜けば、お家断絶の憂き目に遭う可能性があるでしょう。しかし、まずは腰に刀を差して己の言動には責任を持つという暮らしを開始しなければ、独立した国家の精神は育たないのも確かです。

 あとは決断です。

 今村氏の文章に触発されて『戦う精神』について考えを巡らして見ましたが、どうやらこの辺りが限界です。どこまで行っても国家が個人の集積であるとすれば、戦わない国民で構成される国家が、にわかに戦える体制を持つことには、メタボの改善どころではない、計画に基づいた根気強い体質の変革が必要になることだけは確かなように思います。