暴力教師1

 四方正人はのっそりと立ち上がると、いつもの癖で、学生服の上から三番目の金ボタンを右手の人差し指と親指とで盛んにいじり始めた。顔はこれまたいつもの癖で、少しうつむいて、はにかんだように笑っている。

「さあどうした正人、教科書の六十五ページだ。小さな声でも構わないから読んでみろ」

 尾崎俊介は担任の教師として、この風変わりな情緒障害児にせめてクラスの中で本読みができる程度の能力は身につけさせてやりたかった。すると、

「先生!」

 隣の席の二村陽子が勢い良く立ち上がった。

 発育の良い陽子と並ぶと、小柄な正人はみすぼらしくさえ見える。

「四方くんがしゃべるのを待っていたら日が暮れてしまいます。授業を進めて下さい」

「いや、ちょっと待て」

 俊介はいい機会だと思った。

 このクラスを担任して半年が過ぎたが、中学二年生という多感な時代を一緒に過ごしている割にはクラスメートとしての連帯感に欠けている。四方正人のことを全員の問題にすることで、クラス全体の仲間意識を高めることができれば素晴らしい。

「いいか陽子、いやみんなも聞いてくれ」

 俊介は黒板に大きく『緘黙』と書いて向き直り、教壇の上から四十人の顔を見回した。二村陽子は席に座り、四方正人は同じ姿勢でボタンをいじっている。

「いいですか、これはカンモクと読みます。正人は口が利けない訳ではありません。家ではお母さんとちゃんと会話をしています。話す能力はありながら、心理的な原因で口が利けない現象を緘黙と言いますが、正人の場合は学校という環境に限ってしゃべれなくなる場面緘黙という状態なんです。何らかの不安や緊張やわだかまりが正人の心の中にあって、それが正人の口を閉ざしています。先生は先生という立場ではなく、むしろ一緒に学校生活を送る仲間として正人を放っておく訳には行きません。我々と同じように、言葉で夢や喜びや悩みや悲しみを語り合える心を取り戻してやりたいと思うのです。もちろんそのためには正人自身が誰よりも努力をしなければなりませんが、みんなにも協力をしてほしいのです。せめて国語の教科書が一行だけでも読めるようになれば、正人はきっと今の状態から抜け出す糸口をつかむに違いありません」

「そうだそうだ、頑張れ正人!」

 教室の後ろの方で、ひょうきん者の沢口進が手を叩き、それに誘われるようにクラスの大半が拍手した。意を強くした俊介が、

「さあ正人、教科書を開いて」

 やさしく促すと、正人はおずおずと教科書を手に取った。

(そうだ、その調子だ。思い切って声を出してしまえばどうってことはない)

 尾崎俊介と三十九人の瞳が見つめる中、正人は目的のページを開いた。いや正確には開こうとしたといった方がいい。正人の指が六十五ページを探り当てるよりも早く、教科書の間から一枚の紙切れがゆっくりと舞い落ちた。それを拾った二村陽子の声が、つかの間の静寂を引き裂いた。

「キャー!何これ、いやらしい!」

 それは大胆な肢体をさらけ出したヌードグラビアの切り抜きだった。俊介が制止する余裕もなく、物見高い数人の男子生徒がグラビアの周りに群がった。

「おおいみんな、緘黙ってのはムッツリすけべのことなんだぜ!」

 学生服の襟元から真っ赤なTシャツを覗かせた塚本浩一が、そのグラビアを高々と掲げてはやし立てた。四方正人は教科書を床に落とし、まるで別人のように表情を固くして狂ったようにボタンをいじっている。やがて正人の右手からプツンと音を立てて金ボタンがちぎれ飛んだ。

「みんなやめてよ、ひどすぎるわ!」

 学級委員の伊藤明代の叫び声は、騒然としたクラスのざわめきの中でかき消された。

 俊介はこのとき初めて自分のクラスに陰湿ないじめが存在することを知った。

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