新・うさぎとカメ

作成時期不明

 父親のカメは疲れたように枕もとの水をゴクリと一口飲みました。息子のカメは思わず辺りを見回しました。ひとに聞かれていい話ではありません。なぜ父親のカメが自分だけをわざわざ枕もとに呼んで話し始めたかという訳が、息子のカメには今ようやくわかりました。父親のカメは仲間たちの間ではまるで神様のように尊敬されているのです。それもただひとえに、かけくらべで足の速いうさぎに勝ったせいではありませんか。実はそれがお芝居だったということが判れば、みんなどんなにかがっかりすることでしょう。その話以来、みんなして築き上げてきた「堅実」とか「努力」とかいうカメの信用はなくなってしまうかも知れません。信用がなくなるだけでは済まなくて、ひょっとするとズル賢い嘘つき野郎という評判が立つかも知れません。そう考えて見ると今、父親のカメが告白している事実というのは大変な話なのです。

「どうして父さんはもっと早くにそれを教えてくれなかったのだい?」

 息子のカメの質問に父親のカメは答えました。

「わしには言えなかった…。最初はほんの軽い気持ちで思いついたことだったのだか、それが仲間たちからこれほど喜ばれ、そしていつの間にか仲間たちの心の支えになっているということを知れば知るほど、わしには言えなかった。決して自分の名声を失うのを恐れた訳ではない。いいかい?これだけは信じておくれ。仲間たちの夢や誇りを壊したくなかったんだよ。それにあのうさぎの好意には報いなくてはならぬ」

「うさぎの好意?」

「気のいいうさぎだったが口の堅いうさぎだった。かけくらべでわしに負けていい恥さらしだと、うさぎの仲間たちの間では随分辛い思いをしていたけれど、あいつは、とうとう最後まで秘密を黙り通して死んで行った」

「お父さんは、うさぎが辛い思いをしている時はどうしていたんだい?」

「わしか…。わしは決心したよ。何もかも打ち明けてしまおうとな。しかしうさぎは言うんだよ。一度ついた嘘はつき通すべきだとね。でないとわしもうさぎも、もの笑いになるだけだと言うんだ。わしにとってもうさぎにとっても苦しい毎日が始まった。とんでもない芝居をしてしまったと後悔した。確かにわしは仲間たちからもてはやされた。しかし、その度に身が切られるような思いをして来たんだよ」

 父親のカメの目には涙が浮かんでいました。しかし嘘をつきとおして来た父親のカメを責めようとは思いませんでした。それどころか不思議な気持ちですが、息子のカメは実はホッとしていたのです。今まで付き合って来た父親のカメは、いつも英雄という仮面を被って、決して脱ごうとはしませんでした。けれど、今ようやく本当の父親と話ができたような気がしていたのです。息子のカメは父親のカメの手をやさしく握りました。そしてもう半ば深い眠りに陥ろうとしている父親のカメを励ますように聞きました。

「でも、お父さんはどうしてその話をボクにしてくれたの?」

 父親のカメはもう目を開ける気力もありませんでしたが、かすかな声でこういいました。

「真実は、誰かが、知っていなければ、な、ら、な、い」

 もしもしカメよカメさんよという、うさぎとカメの歌が聞こえます。カメの国の国歌になってしまったこの歌を、カメの英雄の葬儀に参列した仲間たちが高らかに唄っているのです。

 息子のカメはひとりじっと夜空を見上げて歯を食いしばっていました。

 息子にとっては父親のカメが歩いて来たのと同じ辛く苦しい生活が、たった今始まったのです。