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福祉サービスの死角(3)
平成30年01月10日
審判書が届いてから、さらに二週間の事務上のタイムラグを経て、正式に板橋弁護士が吉島敬三の保佐人として登記された。板橋は付与された代理権を用いて本人の財産を調べ、財産目録と年間収支報告書を作成して裁判所に届けなければならない。与えられた期限は原則一か月以内。その間に、登録された事実を銀行を初めとする関係機関に周知して今後の協力を依頼する。
敬三は持ち前の素直な性格で、通帳、印鑑、不動産の権利証のたぐいを言われるままに板橋弁護士に預けたが、まれに、この段階で気が変り、通帳や印鑑の引き渡しを頑なに拒む人がいる。そうなると、計画的に生活費を届けることができなくなるため、被保佐人の奔放な消費行動のいちいちに取消権で対処するという煩雑な事態になる。悪徳業者から羽毛布団や浄水器などを売りつけられた場合の被害は回復が容易だが、日常生活上の消費に対して取消権は及ばないので、家計を顧みない酒やギャンブルへの浪費には対応が難しい。そこで最終的には、保佐人が代理権を用いて新しい通帳を作り、そこへ本人所有の残高を移すという強硬手段に訴えることになる。年金の振込先も新通帳に変更すれば、本人は完全に浪費の財源を断たれてしまう。しかし、この荒わざは、本人の財産の散逸を防ぐという意味では保佐人の職務を果たすための有効な手段だが、本来、信頼でつながるべき保佐人と被保佐人が、感情的に対立してしまうという致命的な欠陥がある。
「後見は財産を守る制度だとか、うまいこと言いながら、結局、自分のカネを自由に使えなくなっただけじゃないか」
という不満を被保佐人が抱けば、保佐人の仕事は極めて難しくなる。
その点、吉島敬三には全く問題がなかった。
「吉島さんはご高齢の上、お独り暮らしですから、これからは私が財産の管理と、生活上のご相談を担当することになりました。月に一度は私か事務員が様子を伺いに参りますが、何かあればいつでもここにお電話を下さいね」
板橋弁護士が名刺を差し出すと、敬三は深々と頭を下げてそれをポケットにしまったが、しまったとたんに名刺のことは忘れてしまう。それが認知症なのだ。
「それから要介護1の認定が下りていますので、介護保険のサービスが使えますが、何かご希望がありますか?例えば掃除や洗濯や買い物をヘルパーさんにやってもらうとか、昼間デイサービスを利用して皆さんと楽しく過ごすとか…」
「ま、考えさせてもらいます」
理解できないのが露見するのは相手に悪いと思うのか、それとも自尊心が傷つくのか、敬三の返事は常にあいまいである。長年の生活経験で、その場をとりつくろう言葉の操り方は身に付いているだけに、日常会話の中で認知症高齢者の理解の程度を測るのは難しい。
ここは専門職の力を借りるしかないと板橋弁護士は判断し、
「それでは吉島さん、これから快適な毎日を過ごして頂くために、一緒に生活を組み立ててくれるケアマネジャーという人に訪ねてもらうようにしますので待っていて下さいね」
「はあ…」
敬三の家を後にした板橋弁護士は、地域包括支援センターに立ち寄って、挨拶かたがた居宅介護支援事業所の紹介を依頼した。