誤算Ⅳ

平成30年03月27日

 法律というものは面倒なものだと敦子は思った。

 虐待を受けた母の無念を娘として慰謝料という形で晴らしたい。ただそれだけのことなのに、

「敦子さんのお気持ちは痛いほど分かりますが、慰謝料請求というのは難しいですね。大切な人が虐待されて、娘として心が傷ついたという訴えを認めるとしたら、妹さんも請求できることになります。私も傷ついたという友人だって現れるかも知れません」

 梶浦の説明はにべもない。

「お母さまが亡くなったような場合は、相続人として敦子さんが訴えを起こすことになるでしょうが、この場合は、被害者であるお母さま自身が、加害者であるウェルフェアに対して、慰謝料も含めた損害賠償を請求することになります。もちろんウェルフェアが賠償に応じるはずがありませんから訴訟になるでしょう。ところで、敦子さん、お母さんが法廷に立てると思いますか?」

 梶浦は思いがけないことを聞く。

「それは無理ですよ。無理だから先生に代理人になっていただきたくてご相談しているんじゃないですか」

「それじゃお母さまは私を代理人にするための委任契約を結ぶことができますか?」

「それも無理でしょう。母は私が娘だということも分からない状態ですから…え?ちょっと待ってくださいよ、先生、ということは、どんな被害を受けても、母の様な重い認知症患者は、裁判に訴えることもできないということですか?裁判を受けるのは国民の権利だと学校で習いましたが…」

 どうなのですか?と身を乗り出す敦子を手で制し、

「だから民法に成年後見制度が設けられているのですよ」

 どうやら梶浦は、予備知識のない敦子にも分かるように制度の説明をしているらしい。

「成年後見制度ですか…」

「お母さまを例に取れば、敦子さんが家庭裁判所に申立てると、ご本人や敦子さんにも面接して事情を聞いて、裁判官が例えば敦子さんを代理人に選任します。医師の診断に基づいて、残存能力のある順に、補助、保佐、後見の三類型があって、補助の場合だけは申立ての段階でご本人の同意が必要ですが、お母さまは間違いなく最も重い後見でしょう」

「…で、私が母の後見人になると?」

「後見人は全面的にお母さまの代理人ですから、お母さまに代わって提訴もできれば、弁護士と委任契約も結べます」

 ようやく敦子にも制度の骨格が見えて来た。要するに意思能力の不十分な人が有効に法律行為を行うために、能力の程度に応じて国家が代理人を決めてくれる制度らしい。

「そうする以外にウェルフェアを訴える方法がないのなら、もちろん申立てをしたいと思いますが、手続きはどうすればいいのですか?」

「戸籍を取ったり、財産を調べたり、書類を書いたり、ちょっと面倒ですから、よろしければ私が行いますが…」

「そうして頂ければ助かります」

「これは敦子さんと私どもの委任契約ですからね」

 梶浦は事務員に後見開始申立て事務の委任契約書を持って来させた。着手金は二十万円だった。

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