ふじ枝の大正琴(01)

令和01年02月27日

 買って来た卵を冷蔵庫にしまおうとして、吉田ふじ枝は我が目を疑った。ドアポケットには、既に卵がずらりと並んでいる。他の棚には、牛乳パックや菓子パン、業務用マヨネーズや袋菓子などが隙間なく詰め込まれていて、新しい卵パックを収納するゆとりがなかった。

 たった今、買ってきたばかりなのに…。

 事態が飲み込めないまま、ふじ枝は手に持った十個入りのパックを台所の隅の床に置いた。周囲には同じように封も切らない卵のパックが腐臭を放って散乱している。その隙間を縫うように、こげ茶色の昆虫が素早く四方に散ったが、ふじ枝は意に介さないでレジ袋から刺身と惣菜とご飯のトレーを次々と取り出した。続いてペットボトルのお茶と、刺身醤油の小瓶を取り出して食卓に置いたとき、

「ん?」

 ふじ枝は再び我が目を疑った。

 ここにも既に封を切った刺身醤油の瓶があった。

 キツネにでもつままれているような気がする。最近はこんなことが多い。ふじ枝は、流し台の下の開き戸を開けて、買って来たばかりの醤油を収納スペースにしまったが、そこには同じ大きさの刺身醤油の瓶が敷き詰めたように並んでいる。

 気まぐれに菓子パンや袋菓子を食べたりはするものの、基本的には刺身と惣菜とトレーのご飯が毎日のふじ枝の食事だった。買い物に行けば、必ず卵を買うのが習慣になっているが、もう長いこと調理したことはなかった。ガスコンロの上には、季節ごとに郵便局から届く全国の名産品のダンボール箱が、開けた形跡のないまま積み上げられていて火は使えない。炊飯器の中には残飯を覆い尽くしたアオカビが、水分を失って黒々とこびりついていた。シンクの洗い桶は、皿や茶碗を入れたまま水が蒸発し、その上に空のペットボトルやスーパーのトレーがあふれ返っていた。

 食事を終えて、空になったトレーと、まだ半分ほど残っているお茶のペットボトルをシンクに放り込んだふじ枝は、

「あれ?」

 今度は流し台の上に新品の煮物のトレーを発見した。ラップの上からも明らかに白いカビが生えているのが分かる。

 こんな古いものを売るなんて許せない。

 ふじ枝は証拠の惣菜を自転車のカゴに入れて、スーパーに向かってペダルを漕いだ。五月に入ったばかりだというのに、陽射しは夏の気配が感じられる。


 スーパー・ハヤカワの一番レジでレジ打ちをしていた島崎康子は、

「ちょっと、あなた」

 聞き覚えのある大声で呼びかけられた。

 振り向くと、

「こんなもの売るなんて、ひどいじゃないですか」

 案の定、お刺身ばあさんが、小柄な体で仁王立ちになって惣菜のトレーを突き出している。

 日に一度、午前十時過ぎには必ず来店して、トレーのご飯のほかに、刺身と醤油と惣菜と卵のパックを買って行く八十歳前後の女性のことを、店ではお刺身ばあさんと呼んで警戒していた。

「お客様、今、店長を呼びますから、しばらくお待ちください」

「店長じゃありませんよ。これを見て下さい、これを。ほら、カビが生えてるでしょ?」

 語気を荒くするふじ枝に、

「それは申し訳ありません」

 と、頭を下げながら、

「ちょっと商品を見せて頂きますね」

 康子は惣菜を受け取って表示を確認し、

「あの…これは消費期限が三週間前に切れています。本日お買い求めになったものではないと思いますが、よかったらレシートを…」

「何言ってるんですか、私は毎日食べる分だけ買って行くんですよ。ラップをしたままということは新品でしょう。店が消費期限の切れたものを売ったとしか考えられないじゃないですか!」

「いえ、お客様、私どもは商品管理には…」

 康子が反論しようとすると、

「おい、何やってんだ、早くしてくれよ」

 レジに並んだ男性客が怒鳴った。それに勢いづいて、複数の客が同調した。

「おねえさん、そのお婆さんが苦情を言ってレジを困らせるのは、今日始まったことじゃないでしょ」

「出入り禁止にできないの。迷惑だわよ」

 と、そのとき、隣のレジからの連絡で駆け付けた店長が対応を引き継いで、

「あの…お客様、ここではあれですので、こちらでお話しを伺います。どうぞ、どうぞ、こちらへお越しください」

 ふじ枝を他の客の迷惑にならない場所へ案内しようとすると、

「結構です。私は責任を取れとか、代金を返せとか、難しいことを言ってるんじゃありません。ただ、こんな商品を売ってはいけないとご注意申し上げに来ただけなのです。これでも忙しくているんですからね。帰らせて頂きます」

 肩を怒らせて店を出て行くふじ枝のスカートの裾から、パジャマのズボンがのぞいていた。

 店長の手に、カビの生えた総菜のトレーが残っている。

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