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ふじ枝の大正琴(02)
令和01年03月01日
事務室に副店長を呼んだ店長は、
「また例のばあさんだよ、お刺身ばあさん。今回は消費期限の切れた総菜の返品だった」
店長はカビの生えた総菜を机の上に置いた。
副店長はトレーの表示を確認して、
「こんなことが、いつまで続くんですかねえ…」
とため息をついた。
「悪意がないだけに始末が悪い」
「認知症ですからね」
「スタッフには、講座で教わった通りに対応してもらっているんだが…」
間違っているのだろうかと、店長は名札の紐に通したオレンジリングを目の高さに持ち上げて見せた。
自治体が主催する認知症サポーター養成講座を受講すると、オレンジリングと呼ばれるシリコン製のブレスレットが渡される。店長、副店長はもとより、販売部門の責任者たち全員が、それを名札の紐に通して、認知症に理解ある店であることをアピールしていた。朝礼ではパート職員たちにも、認知症が疑われる来店者への接し方について伝達講習を行っていた。
認知症は脳の障害によって記憶の機能が損なわれている。買い物をしたという事実を覚えていないのだから、料金を払わずに商品を持ち出そうとしても万引き扱いしてはいけない。手に取った食品を店内で飲み食いしても無銭飲食扱いしてはいけない。認知症は感情まで障害されてはいないから叱責や詰問によって屈辱を与えると、問題はこじれるばかりで収拾がつかなくなる。自然な会話の中から連絡先を聞き出して、家族の協力を得るのが最も適切な対応である。
「…と、まあ、教科書のようなことを口で言うのは簡単だが、現実はそうは行かない。自分たちに非がないのに、ひたすら謝罪に徹するのは、相手が認知症であっても腹立たしいものだ。スタッフはよく我慢してくれていると思う。自然な会話の中から連絡先を聞き出せと言うが、まだ我々は、ばあさんの名前さえ聞き出せないでいる。いっそきつく叱って…」
二度と店に足が向かなくなるほど不愉快な思いをさせた方が効果的ではないかと、思い詰めたように言う店長を、
「それはまずいでしょう」
副店長は慌てて止めた。
「当店は認知症にやさしい店として登録し、それを標榜するステッカーも貼ってあります。不適切な対応などすれば、評判に関わります。プライバシーだ個人情報だとやかましい割には、非難の材料を見つけると、誰かが匿名でSNSに動画をアップして、あっという間に炎上する時代ですからね。最悪な場合、人権団体が取り上げて、不買運動にだって発展し兼ねません。それより一度、チラシに印刷してある、中部地域包括支援センターとかに相談してみてはどうでしょう?」
副店長は、『認知症にやさしい町づくり』という壁のチラシを指差した。チラシには地域包括支援センターの四つの機能が紹介してある。そのうちの一つである総合相談支援の項には、
「ほら店長、センターは、地域住民からの相談により、高齢者の自宅を訪問して、どのような支援が必要かを把握する…と書いてあるではありませんか」
「確かに、認知症にやさしい店の登録を勧めに来た担当者は、来店者の中に認知症を疑われる人がいたら遠慮なく相談して欲しいと言っていたのを覚えているが、名前も住所もわからない認知症のばあさんをどうにかしてくれと言われても、支援センターだって困るだろう」
「地域包括支援センターは、認知症に対する知識を普及啓発しているおおやけの専門機関ですよ。まずは店で本人と会ってもらい、自然な会話を交わしながら、さりげなく連絡先を聞き出すお手並みを見せて頂きましょうよ」
専門機関という頼もしい響きに、店長はにわかに視界が開けたような気がしていた。