防犯のシナリオ(16)最終回

令和01年06月18日

 西警察署知能犯担当の葛西刑事は頭を抱えていた。

 今は法律ができて、カード詐欺の損害は基本的に満額補償されるので、被害者の生活は保護されるが、村井泰三という小柄な老人の口座から八百万円という大金が引き出れた事件は、三か月が経っても解決の糸口がつかめなかった。

 事件の発覚が犯行から既に一か月近く経っていたという点と、被害者が認知症であるために満足な供述が得られないという点が捜査を難航させていた。

 唯一の手掛かりである被害者の手元にあったカードは、西岡達彦という学生がショッピングモールのトイレに置き忘れたものであることに疑いの余地はなかった。念のため西岡の供述に基づいて、モールの関係者にも交番の巡査にも確認したが、財布を忘れた若者のことは複数の人が鮮明に記憶していた。郵便局のキャッシュカードだけでなく、運転免許証も国民健康保険証もクレジットカードも一斉に紛失と再発行の手続きがなされていて不自然さはなかった。そうなると西岡の次にトイレを使用した者が犯人である可能性が高い。しかし混雑する日曜日のショッピングモールでは特定のしようがなかった。

 拾得した西岡のカードと被害者のカードをすり替えたとき、犯人は必ず被害者と接触しているはずだったが、残念ながら認知症の被害者の記憶は欠落していた。十六回にわたって現金が引き出されたATMの監視カメラには、パーカーのフードを目深に被った大柄な中年の女性が映っていた。財布が盗られたのが男性トイレということは、男と女の共犯ということになる。

 指紋、目撃者、監視カメラの映像、類似した過去の犯罪…と、葛西は意地のようになってあらゆる角度から検討を重ねたが、捜査は進展しないまま夏を迎えた。

 その日、防犯課の若い女性警察官二人が食堂で交わしていた何気ない会話を偶然葛西が耳にしなければ、事件は迷宮入りしていたかも知れなかった。

「ふう、暑かったわね」

「市民センターはどこも冷房を控えめに設定してあるからね」

「予算がないのよ、警察と同じ」

「それにしても、市民向けに防犯について話すのって虚しいところがあると思わない?もう慣れたけど…」

「虚しいって?」

「だってそうじゃない、催しに参加するような意識の高い人たちには講話なんか必要なくて、本当は会場に来ない無頓着な市民が聞かなくちゃいけないんでしょ?」

「確かにそうよね。だから来場者には粗品を配って参加を促してるけど、最も詐欺のターゲットになっている認知症のお年寄りは、残念ながら講話を聞いてもすぐに忘れちゃうしね」

「ほんとほんと、だけど今朝の市民団体の防犯寸劇は珍しくよくできていたと思う」

「あのトリックには驚いたわね、あなたのカードが偽造されている可能性があるって郵便局から電話があれば、認知症じゃなくったって信じちゃう」

「で、警察官が来て通帳とカードの番号を手帳に控えて、返すときに別のカードとすり替えるのよね」

「そのあとの暗証番号を聞き出す方法が巧妙だったわ、シナリオを書いた人は天才よ」

「いつもの郵便局以外ではATMで現金を引き出せなくする手続きができますが、どうしますかと聞かれれば、たいていはお願いしますとなっちゃう」

「暗証番号を書いた用紙を二つ折りにして、その場で封筒に入れて厳重に封をすれば、絶対に外には漏れないと思うよね」

「封筒に赤い字で大きく極秘って書いてあったしね」

「あれは笑ったわね」

「犯人はまんまとキャッシュカードと暗証番号を手に入れた」

「詐欺もどんどん巧妙になって行くから、私たちもぼんやりしてられないわね」

 それだ!

 葛西は冷やし中華を食べかけのまま立ち上がって、

「君たち、会場はどこだ!主催者を教えてくれ!」

 周囲が注目するくらい大きな声で聞いた。


 市民ボランティアが結成した防犯劇団にシナリオを提供したのが中山亮一という学生であることが分かると、マジックの種明かしのように犯人が割れた。結局は西岡達彦の犯行だった。達彦は演劇部で鍛えた腕を生かして電話で郵便局員を演じ、通販で購入した制服を着て警察官になりすました。接着剤を塗って指紋を消し、大柄の中年女性に変装してATMを操作した。村井泰三に関する詳細な情報は、桜小学校区のケア会議の資料が、古紙回収に従事する自閉症の弟を通じて達彦の手に渡っていた。立地条件のいい場所に手頃な広さのテナントを見つけ、就労支援事業を行うための具体的準備に取りかかったところでの逮捕となった。兄の逮捕によって、単身生活には不安があると判断された自閉症の弟は、相談支援専門員と作業所の担当者が協力して施設に入所させた。入所に際しては多少の混乱や抵抗はあったものの、達彦が想像したほどのパニックはなかった。

「くふうをすれば、施設なんかに入れなくったって、秀夫はちゃんと家で暮らせるんだから。あんたも力になってやってね」

 という母親の呪縛から達彦は思いがけない形で解放された。

「それにしても個人情報や守秘義務がやかましい時代に、実名で会議の資料を配布して、それが古紙として回収業者に渡るなんて、この桜小学校区のケア会議の主催者はいったい何を考えているんだろう」

 葛西は事件の報告書の末尾に、福祉関係機関の情報管理について守秘義務と個人情報保護法の遵守を改めて促す必要性を付け加えた。

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終(最終回)