防犯のシナリオ(15)

令和01年06月16日

 月が改まった。

 またひと月分の味噌汁を送ったから、ちゃんと食べるのよと、今朝、典子から電話があった。

「今日から五月か…」

 泰三は仏壇の通帳とキャッシュカードをポケットに入れると、ガレージの自転車にちらりと視線を送り、歩いて城西郵便局に向かった。

 自転車は昨年の盆に帰省した典子に固く禁止されている。

「お父ちゃん、今年はいよいよ八十歳よ。ついては自転車に乗るのをやめて欲しいの。この前も転んで腰を打ったでしょう。七十五歳で思い切って自動車の運転をやめたんだから、八十歳で自転車をやめる。何度も言うけど、東京で私たちと同居してもいいのよ。それは佳文さんも賛成してくれている。でも、ここで一人暮らしをすると決めた以上、病気も怪我も困るでしょ?私たちもすぐには駆け付けられないし、二人とも仕事をしているのだから、付き添うにも限度があるわ。歩くのが健康に一番いいって言うからさ、八十歳を節目に自転車はやめてね」

 典子の説得に泰三がしぶしぶ頷くと、忘れないようにと典子は自転車の車輪に太い鎖を幾重にも巻きつけて鍵を掛けた。ときに苦々しいと思わなくもなかったが、それ以上に、気遣ってくれる家族がいることが嬉しかったし、何よりも八十歳になって郵便局までの片道二キロを速足で歩いて往復できる健康と体力が有難かった。

 国民年金だけの高齢者は、老齢基礎年金を満額受け取っても月額六万五千円程度である。しかし高校を卒業して大手の自動車メーカー関連のシートの製造会社に就職し、定年まで勤め上げた泰三は、厚生年金を加えて月額二十万円近くが振り込まれた。そのうちの十万円を月初めに下ろしているが、宅配給食の費用や公共料金は通帳から直接引き落とされる。月十万円あれば、高齢者が一人で生活するのには十分だった。戸建ての家のローンは退職金で払い終えて、残りの一千八百万円は定期にしてあった。それでも泰三の普通預金の口座には、いざというときの用心金と、月々数万円ずつ貯まって行く年金を合わせて八百万円近くの残高がある。金銭的にゆとりがあることが、泰三を一人暮らしの不安から救い出していた。

 ところがATMに通帳を入れて、キャッシュカードを差し込んだとたんに泰三の安心は一瞬で崩れ去った。差し込んだカードは拒否されて虚しく押し返された。もう一度試したが結果は同じだった。焦った泰三は、念のためもう一度試みて、押し返されたカードを改めて見ると、氏名の欄にカタカナでニシオカタツヒコと表記されていた。

「ニシオカタツヒコ?」

 わけが分からない。しかし、何かとんでもないことが起きているという胸騒ぎだけが広がって行く。

 泰三は、あたふたと自動ドアから店の中に入り、

「あ、あの…ちょっと済みません」

 電卓を叩いている窓口の男性局員に声をかけると、

「番号札を取ってお待ちください」

 机に目を落としたままで局員は事務的にそう言った。

 ATMだけでなく、局員からも拒否されたようで腹立たしかった。

 長椅子に腰を下ろして二人の先客が済むのを待った。思い詰めたように床の一点を見つめて激しく貧乏揺すりをする泰三の様子を気味悪がって、一つ隣の女性がそっと席を移った。

 やがて泰三の番号が呼ばれた。

「現金を引き出そうとしたのですが、これ、私のカードではないのです…」

 局員は泰三の言っている意味が飲み込めない。

「え?ご自分のカードはどうされたのですか?」

「いえ、これが私のカードだったのです」

「あなたのカードだった?ちょっと拝借しますよ」

 局員は泰三からカードを受け取って機械に入れ、

「ああ、このカードは紛失届が出てますねえ。どこで拾われたのですか?」

 訝しそうに泰三を見た。

「拾ったものではありませんよ。私は毎月これで生活費を下ろしています」

「しかし、あなたはニシオカタツヒコさんじゃないんでしょ?ちょっと通帳も見せて頂けますか?」

 非難めいた口調で泰三から通帳を受け取った局員は、取引の経緯を示す画面を見て、弾かれたように立ち上がった。

「村井さん、これ、千円以下の端数を除いて八百万円の残高がすっかり引き出されていますよ。下ろされたのは…そう、先月の第一週辺りに集中しています…カードで引き出せる限度額の五十万円ずつ…ええっと…一、二、 三…都合十六回にわたって…別々の郵便局のATMから引き出されています」

 詐欺にひっかかったのではありませんかと大声を出されても、泰三には記憶がない。

 呆然と立ちすくむ泰三に、

「すぐに警察を呼びましょう。いや、ここが被害の現場ではありませんから、呼ぶよりは出向くべきですね。今、車を回します。ご一緒しましょう」

 返事もできないでいる泰三を、店舗にいる全ての局員と客が気の毒そうに見た。

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