炎(1)

令和03年09月27日

 すい臓がんは、発見されたときは手遅れであると言われるが、俊博の場合もがんは既に肝臓に転移していて、手の施しようがなかった。

「先生、私には身寄りがないので自分で身辺整理をしなければなりません。余命を教えて頂かないと困ります」

 射貫くように主治医を見る七十歳の瘠せた患者の言葉には、気圧されるような気迫がこもっていた。

「そうですね…長くて一年…と考えて下さい」

 主治医の言葉を聞いて俊博は静かに目を閉じた。

「あ、あの…柏木さん、一年というのは、あくまでも一般論でして、がんの進行にはその…個人差がありますので…」

 うろたえたのは主治医の方で、俊博の心は霧が晴れたように清々しかった。

 ようやく身寄りのない人生に幕を下ろせる…。

 居眠り運転の大型車が対向車線へはみ出して、俊博の父親が運転する乗用車に正面衝突した。助手席の母親と後部座席に同乗していた妻も即死した。妻は妊娠していた。その瞬間に一人息子の俊博は、新聞記者になって十年の節目に身寄りを失った。

 あれから三十八年…。

 多額の保険金で生活の不安はなかった。

 身寄りのない新聞記者にはしがらみもなかった。

 政治家と暴力団の黒い関係を暴いたときは、カミソリの入った封書が頻繁に郵便受けに届いたが、俊明は怯まなかった。

 トンネル工事の入札を巡る大手ゼネコンと官僚の癒着問題も、背後に暗躍する政治家の存在を追求したとたんに、可愛がっていたネコが玄関先で死んだ。

 管理職になるのを拒み、社会の闇を果敢に暴いて一定の評価を得た俊博の取材能力は、定年後も嘱託記者として実力を発揮していたが、国の運営を政治主導に変えるという目的で、官僚の人事を官邸が握ってから、取材も記事の採用基準も明らかに変化した。

「なぜこの記事が没になるのですか?圧力でもあるのですか?もしそうなら、そのことこそ記事にすべきです」

「子どもみたいなことを言わないで下さいよ、柏木さん。政治家は官僚を支配し、官僚はマスコミに影響力を行使します。それを圧力といえば言えないことはないですが、要は政治と行政と報道は微妙なバランスで、協力して国家を運営しているのですよ。わかるでしょ?」

「いや、それには異論があります。メディアは国民の情報源ですよ。われわれは有権者である国民の目であり耳なのです。税金の使い道はもちろん、国民の代表たちが行う国家運営を、主体性を持って公正に取材し、報道するのが使命です。記者の自由な質問を結果的に記者クラブが制限する現状は、報道の自由の自主規制に等しいと思います。明らかに政府寄りの記事しか報道しなければ、読者の新聞離れは進みます。我々は自分の首を絞めているのですよ」

「だから微妙なバランスと申し上げています。我々だって政治家や官僚たちのきな臭い弱みを握っている。彼らは直接我々に対してというよりも、我々のスポンサーである財界に強い影響力を持っている。そこで敵対関係にならない範囲で駆け引きをするのはメディアの側の手腕ですよ」

 上層部の言うことも分からなくはないが、

「ご指摘は当たらない」、「個人に関することはコメントを差し控える」、「既に調査中のことであるため、お答えすることは適当でない」、「資料は規則に基づいて適正に破棄されており、確認のしようがない」

 政治家によるこの種の紋切り型の答弁がまかり通り、重ねて質問しようとすると、

「できるだけ多くの皆さんの声をお聞きするために、質問は一人一問に限らせて頂いています」

「正確を期すために、事前に通告のない質問にはお答えができかねます」

 政治家から指示を受けた進行役の官僚にいいようにあしらわれてしまう現状は、メディアだけでなく、政治に対する国民の信頼さえ失いかけている。

 不思議な国だと俊博は思う。

 政府の都合のいいように統計が改竄され、億単位の政党助成金が決定のプロセスを不明瞭にしたまま特定の候補者に流れ、多額の資金を伴う国家事業が、複数の業者に委託される度に中抜きされ、誰の目にも明らかな政治家の不正がいつものように秘書の仕業にされる。誰も責任を取らない。徹底的に追求する姿勢のないメディアも不思議だが、それで激しい抗議行動が起きる訳でもなく、選挙になれば同じ政治家を選んでしまう国民も不思議である。黒人の少年が警察官の不当な扱いによって死亡したというニュースが暴動にまで発展する欧米の国々とは対照的である。細部まで写実する西洋の油絵に対して、日本の絵巻の細部はあいまいに雲の模様でぼかされているが、それが民族性の違いなのかも知れないと俊博は思う。国民も政府もマスメディアも、細部をあいまいにする同じ民族性の上に成立しているのだ。

 俊博は自分にも社会にも絶望していた。

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