炎(2)(最終回)

令和03年09月29日

 身寄りのない俊博の絶望は、余命一年と知らされたとき、難解な数学の問題が解けたような清々しさに変化した。

 人間は年を取る。七十歳になった俊博も、恐らくは十年以内に病を得て介護を受ける立場になる。費用は貯えで賄えたとしても、心配してくれる家族のいない境遇は想像するだけで恐ろしかった。もしも脳を病み、正常な意思表示ができない状態で永らえたら、マンションを含めた財産はどうなるのだろう。葬儀は?墓は?親しい人への連絡は?いつ現実になってもおかしくないそれやこれやの憂いの数々が、余命が一年と限られたことによって一瞬で解消した。

 一身上の憂いだけではない。

 非正規労働者が仕事と住居を一度に失って自殺したニュースが報じられた日のワイドショーが、穴に落ちた子犬を善意の人々で無事救助した映像で始まったとき、俊博の絶望は社会への憤りに変わった。

 財産の全てを現金化してユニセフに寄付するよう知り合いの弁護士に依頼した。新聞記者として訴えたいこの国の劣化をワードの文章にしたためてスマートホンの自分のアドレスに添付した。それを主要な新聞社に転送するばかりにセットして江戸川の河川敷に車を走らせた。

 給水塔の近くに駐車して社会部のデスクに電話した。

 秋空に鳶が舞っている。

「デスク、柏木です。落ち着いて聞いて下さい。私、今から焼身自殺を決行します。目の前で人が苦しんでいても、助けようと駆け寄る人よりも、遠巻きに撮影した動画を投稿する通行人の方が多い時代です。決行場所が分からなくても映像は簡単に手に入るでしょう。日本人は劣化しました。このままでは日本がだめになるという実感があります。メディアは政治家の疑惑を最後まで追求しない。政治家は説明責任を果たさない。政治から離れた人心は選挙に向かわず、保守層の投票によって選ばれた代わり映えのしない世襲議員が隠然と権力を振るう。抗議文を書きました。有権者との間に緊張感を失った政治のあり方に対する抗議です。しかし一介の嘱託記者の抗議文など、焼身自殺でもしない限りメディアが取り上げないことは承知しています。抗議文は決行直前に主要な新聞社宛てにメールに添付して送ります。どうか原文のまま掲載して下さい」

「おい、柏木さん、何言ってるんだ、ちょっと待て!」

 と言うデスクの声を最後まで聞かないで俊博は電話を切り、用意の抗議文を転送した。

 トランクから灯油の真っ赤なポリタンクを取り出した。

 立ったままでそれを頭から全身に浴びた。

 ぬるりとした感触と耐えがたい匂いに包まれた。

 河川敷にあぐらをかいて、上着のポケットからライターを取り出した。

「ちょっと、何あれ?」

「ヤバイ!焼身自殺じゃね?」

「嘘!マジかよ」

 その段階で通りかかった若い男女数人が俊博を遠巻きにしてスマホを構えた。

 俊博はためらわなかった。

 人間は誰もが一度は死ぬ。俊博の場合、それは一年以内と決まっている。がんの痛みに耐えるのも、焼けて死ぬのも、それほどの違いはない。それよりも燃える命を意義のある記事にできれば、新聞記者として本望ではないか。

 胸元でライターの着火部品をひとこすりすると、驚くほど激しく黒煙交じりの炎が上がって俊博の気道を焼いた。

 女性の叫び声が遠ざかった。

 真昼の河川敷に、凄まじいオレンジの炎が立ち上り、やがて通行人の通報で救急車とパトカーが到着したときには、真黒な俊博の遺体は炎に包まれながら崩れるように横倒しになった。


 その日、江戸川の河川敷で起きた焼身自殺のニュースは全国を駆け巡り、翌朝の新聞には小さな記事が掲載されたが、七十歳の老人が病気を苦に自殺したというばかりで、抗議文はどの社の記事にも紹介されなかった。

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